勝手に納得

面白いな、と思ったこと

本当はいけないことなんだけど・・・。
2,3日前の朝、おばあちゃんのところに捨ててないゴミがあることに気がついた。
同じ通りに面していても、おばあちゃん側と私の家側とではゴミの収集時間が違う。私のところのほうが遅い。
なので、私のところで捨てればいいと思って帰ってくると、その日に限って、すでに終了していた。(12時近い時もあるのに。)

一緒にいた姉が、お向かいのマンションのゴミ捨て場に「ごめんなさいしてきたら」というので、悪いとは思いながら、捨てさせてもらうことに。と、同時に
「そこはだめだよ!」と、車から声がする。それも結構なお怒りの声で。
「ひぇーーー」と思いながら、「すいません!」と、拾い上げ、家に持ち帰った。

確かに、マンションは管理人さんがゴミ捨て場の清掃をしたり、分別していないゴミの後始末などをしているから、部外者が捨てるなんてよくないことなんだけどね。
でも、まあ、ちゃんとしたゴミなら、そう怒らなくてね~、と、思っていたら姉が
「おじさんは自分だけが完璧だと思っているのかしら?」と。

そこで、よくよく考えたら、そのおじさん、きっとそのマンションにお住まいの人だろうけど、車を止めていたのは、なんと歩道。
おじさんそれって・・・・おじさんもだめじゃん。

でも、私もこのおじさんと同じことをよくしているんだろうな、と思った。
自分のことを省みず、人に対して批判する。

久しぶりに思い出した
「罪なき者だけが、石を投げよ。」

思い出さしてくれたおじさん、ありがとう。

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なるほどね

昨日映画を見ていて思ったこと。
アンソニー・ホプキンスが出ている映画で前にも一回見たような気がする映画。
(ちなみにアンソニー・ホプキンスは好きな俳優さん。レクター博士じゃなくてね。念のため。『日の名残り 』の執事役がよかった。女中頭(これって今は禁止用語?)のエマ・トンプソンがそばによってくる場面で、ほんのわずかな間執事の顔から男の顔に変わる場面が素晴らしい!)

今回の映画は大富豪が山で遭難する話。
大富豪なんだけどかなりのインテリで、知識がすごいという設定。
山小屋でもいつも本を読んでいる。
(とあらすじは割愛)

で、山で遭難したときに言う台詞
『遭難して助からないのは、恥じのせいだ。どうしてこんなことになったのだろうとか、俺はバカなことをしたとか、恥じて死ぬ。恥じてばかりで、やるべきことをしようとしなかったからだ。』(毎度うろ覚え)

そして、この台詞の通り、この大富豪は冷静に対処していく。

ここで、大富豪はこういうふうだから大富豪になれるんだろうな、とみょーに納得した。

くよくよするだけのために過去を振り返ってもしょうがない。

大富豪にはなれないかもしれないけど、人生をどう創っていくかは自分しだいだもんね。

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チャレンジ

この間お休みのときに何気にWOWOWをつけていたら、映画が始まったので見た。
映画自体はそれほどたいしたものではなかったけど(監督さん、製作者さん、ごめんなさい)、ある台詞に「おおおおーーー!」となった。

(映画は『ブルース・オールマイティ』の続編『エバン・オールマイティ』というやつ。モーガン・フリーマンが神様役で出てくるやつね。)

(毎度のことうろ覚えの台詞ですが)
「神に『勇気をください』と願えば、神は勇気にチャレンジする機会をくれるのだ。」

おお、そうだ、そうなんだんよね~。神様ってさ。

オーラ・ソーマでも4本選ぶボトルのうち2番目は「チャレンジ」と呼ばれる。(今は変わったようだけど)
この「チャレンジ」とは、克服すべき人生の課題であり、それを克服することがギフトとなっていく、ということを表す。
最近はスピリチュアルを特に意識していることは少ないけれど(というか、基本的にはそういう考え方でいる場合が多いので)こうやって突然「おお!」と言う言葉なんかに出会うということは、その時に本当に必要なものなんだろうね。

確かに私の人生、チャレンジばかりだけど、ほとんどはギフトとなっている。
一見うまくいっていないようなことでも、後々になってみれば、それが自分にとっては、とーっても必要なことだった、と思えることも多い。

失敗は成功の元、というけれど、人生に失敗なんてないんだろうね。
成功するための過程なんだろうね。
(久しぶりに最初と話がずれた?)


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熱い奴、再び

最近はお蔭様で教える機会が増えた。

カルチャースクールなどでは、自分だけで仕事をしていたら出会えなかった方々にも教えることができて、とっても幸せ。

まあ、リフレクソロジーも私が仕事を始めた頃に比べると知名度も高くなったので、受講生さんも気軽に参加しやすいんだとも思うけどね。

以前は、リラックスソロジー?とか、レヒュレクショロジー?とか、パッと見ただけでは読めない人も多かったもんね・・・(とおーーーい目)

でも、教えていて思うことは、その知名度とは裏腹に未だに本当はリフレクソロジーって何ものなのか?ということは、まだまだ知られていないということ。

毎回「え!そうなんですか!」といわれるのは、反射区とつぼの違いを違いを教えたとき。

それと、オイルで行うことはないと伝えたとき。

あとは、確実に圧について驚かれる。

「そんなんでいいんですか~?」

(「いいんですよ、もちろん。」と、答えるけど。)

足つぼ、とか、足裏マッサージとか、が一般的に広まってしまっているので、こういう誤解も致し方ないとは思うのだけれど、

つぼと反射区は、まったく別のもの(考え方は似ているが)

また、マッサージとも違うものなのだ。(筋肉を揉むのでもなく、ほぐすものでもない。反射区に対して垂直な刺激が必要。だから、オイルは使わない、使えない。)

そーーんなことを教えるたびに

「ここに来てよかった。白紙の状態のときにちゃんとした事を教えてもらえて。」

なあーーんてことをいわれると、いつものように「豚もおだてりゃ木に登る」状態。

そいでもって、調子に乗って、セルフ講座で、ホームケアの領域まで、ホームケアで、ベーシックの領域まで、ベーシックで養成講座の領域まではみ出してしまうこともしばしばなのだ。(で、毎度、じ、時間が・・・・)

(まあ、たくさんの人にリフレクソロジーの本当のよさを知っていただくことが私のミッションなので、これでいいのだ!だ?)

先日もカルチャースクールのホームケア講座を終了された方がトリートメントを受けに来てくださったのだけど、終了後

「身体の中に効くっていう感じがわかりました。」

と、他のところで何回も受けたことがあるはずなの、初めてそう感じたみたい。(その感想を私が喜んだのは言うまでもないのだけど)

むむ、やっぱり、まだまだ本当のリフレクソロジーは知られていないのね。

と、これからのミッションの遂行に向かって、再び熱いものが私の心に湧き上がった。(大げさすぎ。。。)

ということで、あーんなところや、こーんなところで、人様の手を押しながら「リフレクソロジーは云々」と言っている奴がいたら間違いなく私です。

遠巻きでよいので、暖かく(生ぬるく?)見守ってやってくださいね。

けっして怪しい奴ではありませんから。(念のため)

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お墓参り

先週、母にちょっとした用事で電話をすると、母が「日曜に、お父さんのお墓参りに行くけど、あなたも来る~?」って、ついでのようにぽろっと、言った。

その時はあいまいな返事をしたけど、電話を切ってから、そういえば、2,3日前に父が夢に出てきたなあ、と、気になった。(まあ、父はしょっちゅう出てくるんだけど)

毎度、毎度、墓参りは、仕事にかこつけて行っていない。法事すら、スクールと重なることが多くて、行っていない。

まあ、『千の風になって』じゃないけれど、どうせ墓なんかにいないだろうから、と、この歌が流行る以前から、思っていたので、「ま、いいか」だったんだけどね。

いつもなら、母は弟の家族と一緒に出かけるので、最近は甥も姪も大きくなったし、弟の車も小さいのに買い換えたので、私が行くとなると定員オーバーのはず。だけど、「あなたも行く~?」と聞くところをみると、電車で行くのかな?と、勝手に想像した。

仕事も入ってないし、最近、話しをしていないし、たまには母と電車の旅もいいかな、(お墓は三重県の津にあります)と、思い、昨日電話したところ・・・・。

「あなたが来きても、車に乗れないわ~。私があなたの分まで、お墓参りして来るから、今回は(も?)留守番でいいわよ~」だって。

なんじゃい、いつもどおり、車か・・・でも、母よ、じゃあ、何故、誘ったんだよ~。

と、心で思いつつ、その後しばらく母と話をしたけど、これがまた、よくしゃべること、しゃべること、お前は、女子高生か!と言うぐらい。(今時は、メールか・・・・)

それこそ、父が生きていて、そばにいたら「そんなに、しゃべることがあったら、行って話してこい!!!」と、脇から怒鳴られそう。

その後、いい加減しゃべってから「あら、長電話ね。」と言って、母のほうから切ってしまったけどね。

電話を切ってから、今回は、私にとって、墓参りはどうでもいいことだったんだな、と、思った。

2,30分、母の話を聞いてあげることが必要だったんだな、と。(まあ、もともと、お墓参りにいこうかと思った理由が、母と最近話しをしていないし、だったんだけど)

先日のお葬式のときも思ったけど、お葬式も、法事も、お墓参りも、死んだ人のためって、いうより今生きている人のためだな、って、思う。

普段ならめったに顔を合わせることのない親戚や、家族に会う時間を作ってくれる。

亡くなった人たちからのギフトはたくさんあるけれど、こういうのも、そのひとつなんだよね、きっと。

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やったほうがいいけれど・・・

やらなくてもいいことは、やらないようにしている今日のこのごろ。

例えば、今日はお休み。だけど、やってしまったほうがいいと思う仕事はあるのだけれど、実はやりたくない。だからやらない。(笑)

ちょっと前の私なら、やったほうがいいけれど、やらなかったことに対して、ちょっぴり罪悪感を感じてた。

でも、その罪悪感なんて、ほんとに自己完結。

勝手に、思って、勝手に自分を非難しているだけ・・・。

自分の心しだい。

そんなものとはオサラバするに限る。

それと、今までの経験で、やったほうがいいけれど、やりたくない、というときは、保留にするほうが、結果うまくいく、ということが、多かった。

例えば、今日は宛名書きをしたほうがいいと思うのだけれど、こういうときに、やる気がなく、ほっておくと、どういうわけか、同封したほうがいいものが、その後出てきて、『あわてて出さなくてよかった~』なんて事が、起こることがある。

まあ、なんだかんだと、やる気のない言い訳を(必死で)しているようなものだけれど。(爆)

昨日の雨がすっきりと上がって、気持ちよく晴れた秋晴れの今日。

せっかくのお休みをのんびり過ごそう。

それに、罪悪感だって、突き詰めてみれば、お休みの日に、がんばっているわ~(と、人から思われたい)、私がいるから、なんだからね。

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インディパパを久しぶりに見て

ベーシックコースが明日もあるというのに、土曜日の夜、ニコニコで、インディ・ジョーンズの3作目(パパの出てくるやつです)を見つけてしまい(ショーン・コネリーが好きなのです)見てしまった。

本当に久しぶりで、じっくり見たのは、もう10年ぶりぐらいかしら?

今回見て、気になった(というか、気がついたのは)、インディパパの危機に陥ったときの落ち着きぶり。

ひょうひょうとしていて、ジュニアのあわてぶりとは大違い。(少々あわてているところもあったけど)

それで、ふと思ったのが、人って、それなりに歳をとっていくと、漠然とではあるけれど、「どうにかなるさ、ならなかったらそれまで」っていう気持ちになるんではないだろうか、ということ。

若いときは、遭遇する問題は、何もかも初めてで、私の人生これまで!なんて、思いに駆られることもしばしば。

しかし、この私でさえ、今までの数少ない経験からでも、「なんとかなるさ、だって、今までもそうだったもんね。その証拠に、取り合えず、この歳まで生きてきているのだから」なあーーんて、思うのだから。

今日は敬老の日で、テレビでも特集番組をやっていたけれど、長生きの秘訣は?と聞かれて、決まって出てくる答えが

「くよくよしないこと」

これって、くよくよしない性格だから、長生きできた、というよりも、くよくよしても始まらない、ということを経験の中で知ってきた人の言葉なのではないのかな、と思う。

インディパパと最近のうちの母の姿がダブったのには、笑えたけど、母もいろいろ山あり谷ありの人生だったから、70を越えた今、飄々と毎日を送ってくれるのもいいもんだ。

それを見ているだけでも、くよくよしない人生を歩めそう。

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必要なものと、いらないもの

相変わらず、名古屋は暑いですが、皆様お元気ですか?

姉が家族で帰省しているので、おばあちゃんの世話と愛情(?)を一身に受けており、なんだかんだと更新ができていませんでした。(朝からお風呂に入れると、ぐったり・・・気がつくと、お昼。)

ところで、本題。

この間、お客様との話の流れで、私と両親との話になった。

このブログでもいろいろと書いているので、改めてまた書くこともないのだけれど、世間から見ても、かなり確執のある親子だった。

母とはいい関係になってきている今だから、以前の自分の気持ちを人にもさらりと言える様になったと思うのだが、当時はかなり、深刻。

なんせ、「こちらから、歩み寄ったら、負け。」でしたから。(今思うと笑えるが、当時は真剣。人様にも言えるわけがない。)

だけども、父が死んでしまうちょっと前に、父から「許す」ということを教えてもらって、少しずつ楽に(自分の心がね)なった、という話をしたのだ。

けれど、これは、別に父が親の役目として、「人を許すということは、これこれこうするのだ」と、私に指南したわけでもなく、ただ、最後に会話したときに、私が父を許していることに気がついただけ、というお話。

許すというよりも、相手を受け入れた、と言うほうが適切かもしれないけれど、どちらにしても、父との最後の会話が、私の心を楽にしてくれた。

そのような話をお客様としていたのだが、その後もちょっと思うところがあった。

父は65歳で亡くなっているので、今の時代にしては、長生きではないけれど、死んでしまうときに、ちゃんと自分の役目を果たしてくれたと思う。

誤解を受けるかもしれないけれど、「死ぬ」ということによってしか、その役目を果せないものもあると思う。(生命保険を残してくれたとかそういう話じゃなくて)

残されたもののこれからの人生に、必要な何かを残していってくれて、いらないものは、持っていってくれる。

そして、人の死は、時を選ぶ、といけれど、父のときは、本当にそう思った。

私の父は、絶妙のタイミングで、私のこれからの人生に必要な課題を、ちょっぴりヒントをつけて残していってくれた。

ああ、こんなことを書くと、あの世から父の高笑いが聞こえてきそうで、癪だけど(笑)

ま、お盆ということで。(じゃ、あの世じゃないか。今こっち?)

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何のためにするのか。

最近仕事が忙しくて(ありがたいです)なかなか更新できておりませんが・・。

(講座の開講が増えると、いかんせん、PCとの交友関係も深めることになり、つい、つい、ブログが後回しになり・・・。)

と、いうことで、本題。

以前にも書いたけれど、何かをするときは、動機が肝心。

私の場合、気乗りはしないけど、お金のために~(経営者は辛いのだ)なんて、思って、事を始めると、ほとんどうまくいかないか、嫌な思いをすることになる。

と、以前に書きながら、なんでまた?と思う方もいるかもしれないけれど、今朝、おばあちゃんの家のトイレ掃除をしていて、ふと思ったのだ。

実は、2年ほど前から、毎日のトイレ掃除を素手で行っているのだが(金運UP,いい事と出逢うことがUPするらしいので)自分の家、おばあちゃんの家、仕事場、バレエのある日はスタジオも、と、もう、今日はどこを掃除して、どこをまだしていなかったのかが、わからないぐらいしているのだけれど、何故か最近、苦になってしまった。以前は金運のためにーーーー、と、のりのりで、燃えていたのに。(あ、今では金運大爆発!何てことではないです、念のため。)

で、今朝ふと思ったのが、「なぜするかと言うと、おばあちゃんが気持ちよく使えるためなんだから」と、いたって単純明快なもの。

だから、素手でなくても、ブラシでも、時間のないときは、トイレットペーパーで、汚れているところをさっさ、と、でもいいんじゃん。と。

と、思ったら、気分がすとん、と、楽になった。

(本来、金運UPのためなんて、本末転倒なのだ。)

でも、それでも、毎日するようになって汚れが気になるようになったのも事実なんだけどね。

自分の始末は、最後まで自分でしろ、ということでもあるんだろうけどね、トイレ掃除って。

布ナプキンを使い始めたときも、自分のことを自分で始末する、と言う意識が一番強く感じた。

自分から出たものを汚いものとして、なるだけ見ないようにするんじゃなくて、自分で面倒を見る。(すべてを見ているわけじゃないけれど)

素手でできるようになって、何かを乗り越えた感もあったのだけどね。(大げさか・・・)

また、明日からもトイレ掃除続けられそうです。

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顔を見て話す

金曜日は、バレエの生徒さんと、「ル・パルク」の興奮(?)覚めやらず、帰りにちょっと寄り道。(余韻はみんなで共有がよろしいね。)

終わってからだから9時過ぎなのに、いろいろな話で(スタジオではそれほど話をしないので)盛り上がりまくり・・・。

気が付くと11時過ぎ。

ひとりは県外から、もうひとりは、人妻(既婚のほうがいい?)

私も久し振りのお出かけなので、歩くための靴じゃなく(サテンのつま先トギトギのね)足が痛い。

飲んでいるのは、栄の仕事場の近く、徒歩2分のところ。

県外の生徒さんを泊めることにして(人妻の生徒さんは、だんな様がお迎えに・・・ちょっと、うらやましい、ひとり身のおばさん・・・)栄の仕事場に帰り、県外の生徒さんとは、その後もおしゃべり。

バレエを実際に見て、感じたこと、旅行の話、仕事の話、今までの人生の話、それはもう、たくさんお話をした。(寝たのは、なんと!4時!)

その話の中でも、印象に残ったのは、

「人の顔を見て話を聞く」ということ。

仕事場では外国の方が多い生徒さんなのだけれど、言葉があまりわからないので、話をするときはわからないぶん、相手の顔を見て話を聞く。

それから、海外に旅行したり(この方はスペインに少し滞在経験がある方)知らない言語の人と話をしたとき、言葉がわからなくても、片言、身ぶり手振り、で、通じたときは、言葉の情報量よりも、心が通じあった!と、感じることが出来た、ということを話した。

そういう話をしていて、自分は実際にどれだけ人の顔を見て話をしているか?と、思ってしまった。

最近は、メールでやり取りしていることの多いこと・・・

メールはとても便利だと思う。でも、やっぱり、メールは、言葉の幅が広がらない。

「仕事は言葉のキャッチボール」(うろおぼえ、毎度のことだけど)

ということも彼女から聞いた話。(誰かの言葉らしい)

会って、話して、顔を見るのとは、やっぱり違う。

会話ののりしろとでも言うか、次から次へと連想のように広がるのは、会って話している会話。

そして、やはり、相手の顔をしっかり見て聞き、話すことは心に残る。

顔を見て話すことの大事さを改めて感じた「ル・パルク」の夜・・・・。

あああ、ルグリの表情が忘れられない・・・・

オペラグラスで、見たとき目が合ったと思うのは、勝手なファンの心理ね・・・。

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どうせなら

最近、せこくなったのか、それとも成長したのか、どうせなにかをするなら、楽しんで、と思うようになった。

二日酔いで寝ていても(いきなり二日酔いですいません。)「おお!寝ていられる私って幸せね。」とか、仕事がひまなときに古本を読んでいても本に熱中するとか。

(たとえがあんまりか・・・・)

とにかく、どうせ何かをしなければいけないときとか、何かを出来ないときは、今していることを、どうせなら、楽しみたいのである。

二日酔いで寝ているときにも罪悪感なんて感じない。二日酔いになれるほど飲める自分を誉めたり(おいおい)おお、そんな金があるなら大丈夫!(意味不明・・・)とか。

仕事がひまでも、どうしようなんて悩まない。本を読みながら、心はリゾートのかなた。(そう、今は5月。)

だいたいが、いい案なんて、思いつめていても出てこない。

お気楽にしているときに浮かんだ案はやっぱりいい思いつき。

ということは、どのようなときにでも、心がラクチンのほうが明るい未来が待っている。

どうせ下手な心配をして暗い未来を愁うより、いい気分で、(妄想だろうと)明るい自分の未来を想像してにやけた方が(周りから見ると気持ち悪くても)楽しい時間を過ごせるからね。

眉間に縦じわ、よりは、少々あほう顔のほうが、人の心も和ませられるだろうからね。

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語るのが大事?

この間バレエクラスの後、生徒さんの一人と話しをしていた。

どのような経緯でその話になったのかは忘れたけれど、今住んでいる借家を買い取って、そこに家を建て、アロマなどの商品を売る店舗とセラピールームを2部屋か、3部屋、2階をスクール兼スタジオにして、3階に住む、つもり。と話した。

ありがたいことに私の周りの方はすでに私が1千万ぐらい持っていると思うのか、誰も馬鹿にせず、「いい話ね~。」と言ってくださる。そして、「いつ買うの?」と、嬉しいことにその話を現実感のあるものにしてくれる。

リフレクソロジーに関してもそうだけれど、自分の夢や希望を語るのは(または、語らせてもらえるのは)ありがたいことである。

口に出していうと、その話に現実味が帯びて、達成可能だと感じること(今の貯金残高がたとえ5桁ほどだとしてもっ!)が、できる。

これからの自分の可能性を信じるときに過去の出来事を引き合いに出してもしょうがないかもしれないけれど、過去から考えれば今の私はまさに、奇跡。

10年前を振り返って、今の私を誰が想像できたであろうか。(どんな人生や?と突込みが入りそうだけれど)

10年ほど前から会っていない人に久しぶりに会うと、「感じが変わったね。」と、よく言われる。(きっと、いい意味に違いない、と踏んでいるのだが。)

自分の以前よりいろいろな意味で生きていくのが楽になった。(ただ歳をとっただけなのかもしれないけれど)

あ、話がそれた・・・・。

熱く夢を語るのは、青二才のすることだ、なんて思わずに、これからも語っていこうと思う。

それが私のガソリンとなるのだから。

バレエの話しついでに、ちょっと宣伝

大人のバレエストレッチただ今募集中です。

詳しいことは、こちらから。

OPSバレエサークル

場所は鶴舞です。

毎週月曜日開いています。

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笑いの効能

今朝新聞を読んでいたときに、急に一日笑って過ごしたいな、と思った。

もちろん、自分が楽しく過ごすため。

昨日不安はお友達なんて書いたけれど、やっぱり仲良くするには気難しいところもあるし、何せ気まぐれ、時々私の心を悩ませる。(当たり前か・・・)

そういうときには笑いは天の助けとなる。

自虐的に自分を笑い飛ばすもよし。(これって意外と才能がいるのだ)

笑える本を読んだり。

(そういえば、「いいまつがい」という本をちらりと立ち読みしたけど、慌てて閉じてしまった。ああいった本は公の場所で読むのは避けたほうがいい。『木の芽時だからね~.』なんていう声がそばから聞こえてくること間違いなしだから。)

思い出し笑いをしたり。(楽しかった思い出話にふけるということ。誤解のないように、念のため。)

素晴らしい自分の未来に思いを馳せ、ほくそえむのも、いいかも。(これも人前ではお薦めしないが)

不安は時に厄介な(毎度?)友達になるけれど、笑いはいつも私の味方。

一緒にいれば必ずいい気分をくれる。

そろそろ不安という友達との腐れ縁と手を切って、笑いだけを親友にする時期なのかもしれない。

手切れ金が要るわけでもないし、私の心ひとつで決められるしね~。

あ、でも、時々ストーカーかも。(笑)

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「第九」

年末だからじゃないけれど・・・。

気分が沈んだときに聞くと元気になる曲が、いわゆる「第九」

やっぱり最初から(第4楽章しか持ってないけど)聞くのがいい。

気分がだんだんと高揚してくる。

合唱の部分もまさに、「歓喜」!(そういえば、中区の成人式で、日本語版を歌わされた記憶が・・・)

落ち込み気分も、歓喜に変わる。

聞き終わっても、身体に音がずっと響いていて、何でも出来る気分になってくるから、不思議だね。

といっても、昔からそうだったわけでもなくて、映画「ベートーヴェン 不滅の恋人」を見てから。(お気に入り俳優ゲイリー・オールドマンが、ベートーヴェンを演じてます。見事な偏屈ぶりで)

きっと、監督の解釈なんだろうけれど(クラッシックにそれほど詳しくないのでごめんなさい)作曲家が曲を作るときは、作曲者の感情を表現している(というようなせりふもあったと思う、いつもながら、うろ覚え)として、映画の中でも、曲に込められたであろうベートーヴェンの感情(誰にもわからんが)にあわせたような場面が出てくる。(というか、その場面に合わせた選曲というべきか)

そのなかで、「第九」のときは子どものころの場面なんだけれど、それが、なかなかいいの。ベートーヴェンに特に思い入れがあったわけでもなんでもないので、そう感じるだけかもしれないけど。(この映画を見て怒った人もいるらしいので)

でも、おかげで私の中では、たんなる年末の「第九」から、元気の元「第九」になったのだ。

身体の細胞に聞かせる音って言う感じ。

ベートーヴェンに感謝です。

(ちなみに、年末に「第九」を始めたのはN饗か、どこかの交響楽団が資金を集めるのに演奏曲は何がいいかと、考えたときに「第九」なら、合唱団がいるので、家族の人とかに切符をたくさん売ってくれるかもしれない、と、思って選んだらしい・・・・間違っていたらごめんなさい。)

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お財布、ふりふり~♪

この間からの母とのデート(?)は、続く。

ユニクロに行きたいというので、お付き合い。お昼ごはんを一緒に食べて、その後ユニクロに。

お供のご褒美は、シャツ2枚でした。

その後コーヒーなんぞを一緒に飲み、また、二人でふらふらと歩いて帰る帰り道、空には大きなお月様が。

「満月かしら?」

「明日じゃない?」

「満月にお財布をふりふりすると、金運が上がるらしいよ。」と、私がいうと、母が

「じゃ、明日振るわ。それよりあなたのほうが振らなきゃ!」(はい、ごもっとも・・・)

「振らなかったら、化けてでるわよ~。」(あの、あなた、まだ生きてますから。)

ということで、母の脅迫まがいの言葉に恐れをなして(?)昨日ふり、ふり、しました。

それにしても、オープンなハートで人と接することは、なんてらくちんなんだろう。(親子関係が順調だった方には理解できないかもしれないけれど)

相手に対する思い込みを一端脇に置いてみる。(これが難しいのだけれどね)

自分だって、昨日と違う自分ということもあるのだから、相手も昨日と違う相手かもしれない。

自分だけが成長しているわけじゃないのだから。

親というものはありがたいね。

いくつになっても成長への鍵を握っていてくれるのだから。

母に感謝した満月一日前の月明かり。

お月様にも感謝です。

忘れずに、来月もお財布ふり振りしなくちゃね。化けて出るらしいから。(笑)

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カモノハシ

昨日は、1年以上も前からネットでお知り合いになった方が、お客様としていらしてくださって興奮(?)したせいか、夜遅くなっても眠くならず、ちょっと夜更かし。(ありがたいことでございます。いえ、夜更かしじゃなくて、ね。)

ワインをちびりちびりとやりながら、深夜番組を見ていると何かのドラマが始まった。

「モップガール」というらしい。(再放送かな?)

それほど興味も無く見ていたのだけれど、ある場面にきたとき、「おお、夜更かしはこのためか!」と、勝手に自分に言い訳した。(相変わらず、めでたいやつです。)

俳優さんの名前は出てこないけど(小さくて小太りで、クマのようだけれど、奥さんが元宝塚の人)その俳優さんの台詞

「カモノハシと、ハリモグラは、哺乳類だけれど、卵を産む。だから、変わった生き物だと言われているけれど、そんなのは勝手に人が言っているだけで、カモノハシにしてみれば、いい迷惑だ。一生懸命に生きているのに。」

うううう、私もよくやっている。こういうこと。ただ、自分に対してだけど。

一生懸命に生きている自分に対して、「人と違うから」とか、「誰かに比べて」とか「世間から見れば」とか。

本当の自分にしてみればいい迷惑。自分の人生を生きているだけなのにね。

そんなことを思ってないと思っていたけれど、どうやら私のこの反応は、思っていたに違いない反応。

そう思っていなければ、この場面に反応しないはず。

カモノハシは、そんなこと(へんなやつと)を言われても、どこ吹く風、6万5千年も前から、ほとんど、今のまま。(成長のない奴といわれればそれまでなのだが・・・)ただ、ひたすら、わが道を行く、カモノハシ。

カモノハシにしてみれば、人のほうが変わっている奴なんだろうね。きっと。(ホモサピエンスのほうが、出現が遅いかも?うう、勉強不足)

このカモノハシのぶれない(?)生き方は、見習わなくっちゃ。

自分は、自分の人生を歩む。周りと比べることなく。

当面カモノハシが私の師匠でございます。(笑)

今日もワンクリックお願いしますね。ありがとうございます。

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ささやかだけれど

先日のブログで、生活にメリハリが出たなんて書いておきながら・・・・。

昨日は朝からお疲れモードで、ゆっくりと仕事場に出かけようと思っていたら、雨。

予約が入っていないことをいいことに、そのままお家にダラダラ。

まあ、最近は、協会の立ち上げでいろいろと根を詰めていたからと、自分に言い聞かせ、サボることに。(ああ、だめじゃん。)

サボった割には「お昼は、親子どんぶりとか、腹いっぱい、って感じのするのも食べたいなぁなんて、のんきなことを考えていたら、母から電話。

何で、サボったこと知っているんだろう、なんて思いながら電話に出ると、

「ひとりで模様替えしていたら、にっちもさっちも行かなくなったから、すぐに来て~。」

と、SOS。

雨が降っているから面倒だな、と思いながらも、帰りに親子丼の用意でも買ってくるか、と、出かけることにした。

母のところ(自転車で5分ぐらいのところ)に着くと、部屋はぐちゃぐちゃ、ついでににっちもさっちも行かなくなったのは、食器棚の上の部分。

どう見ても、ひとりでは無理な大きさ。

「最初から無理だって、こんなの!」

何を考えているのわからん、70歳。(血筋かしら?)

食器棚を上げてやり、その他もろもろも片付けて、部屋も一段落。

すると、「おなかがすいた」と、ノタマウ、母。

「ラーメンおごるから。」

と言うのを「うどん屋にしてよ。」と言い、近くのうどん屋へ。

そして、親子丼(うどん屋さんって、あるもんね。)をおごってもらった。(ラッキー♪)

まあ、ささやかだけれど、久しぶりの親孝行。

ご飯も久しぶりに一緒に食べた。

サボった甲斐(?)は、あったのだ。

夜も久しぶりにゆっくりとおばあちゃんのところでお料理。

秋はやっぱり、炊き込み御飯。

おいしく炊き上がって、おばあちゃんも大喜び。

やっぱり全てはうまくいのね。

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うまくいく

お気づきの方も多いと思いますが、今月から定休日を頂くようになりました。

今までは、無休で働くことがいいこと?みたいな思い込みがあったせいか、思い切って定休日を作ることが出来なかったので、私にとっては成長?の現われです。(笑)

それに合わせて、仕事も栄をメインにして、自宅では仕事を出来ないような状態(あ、サロンはあります。事務関係のことです。)に、追い込んで、仕事を家に持ち込まないようにしました。

まぁ、これがいい感じで、今までは仕事と生活がごっちゃになっていたけれど、メリハリが出て自分にとってはとてもいい環境。

確かに去年はおばあちゃんのこともあり、そんな仕事の仕方は出来なかったけど、今はおかげさまで、とっても元気になってくれたので、仕事に集中できるようになった、というのもあるけれど。

(それにしてもうちのばあ様の回復振りといったら、これも愛のリフレクソロジーのおかげね。爆。)

協会の発足も10月1日、栄のセミナールームが事務局をかねているので、そういう意味でも今回のお仕事スタイル変更は、ちょうど良いのです。

特にそれを意識していたわけではないんですけどね。何事も全てはうまくいくようになっているのね、と、一人納得。

人が集まる場所にしたいので、未来の会員様、気軽に遊びにきてくださいね。

話は飛びますが(毎度ね)、全てはうまくいく、つながりで最近感じたこと。

全てはうまくいく、と思っていると、なぜかうまくいく。

きっと、真実も 全てはうまくいくために起こること、なんだろうけれど、うまくいくと思っているという気持ちがそうさせるのか、そう思うことによってできる心の余裕がそうさせるのか、それは定かではないけれど・・・。

自分で言うのもなんだけど、最近はこういう思いがしっかりと自分に根付いてきている。

周りから見れば、海図もなく、オールもなく、小さなボートで、真っ暗な海の真中にいるよな状態であっても、なんだかうろたえることのない自分がいる。(ただ、開き直っているだけか、バカなだけかもしれないけれど、笑。)

どのような場合でも、うろたえても、不安になっても、何事も解決しない、ということが、この歳になってようやくわかってきただけかもしれない。

自分が出来ることをしっかりやり、毎日の生活の中の喜びを感じるほうが、うまくいく。(思い通りにいくっていうのとはちょっと違うかも)

時には肩の力を抜いて、周りを見回せば、違ったものが見えてくる。

ちょっとだけど、心の余裕を感じるコツがつかめてきたような今日この頃。

そんな自分がちょっと好き。(爆)

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父のこと

先日探し物をしていたら、ずいぶん昔の写真が出てきてびっくり。(探し物は出てきませんでした・・・)

私が10歳の時の家族旅行の写真。

その時の父の年齢は41歳、今の私と同じ。

家族旅行といってもその頃は両親とも一緒に住んでいたわけではないので、そういうときぐらいしか会うこともなかったし、会ったとしても、年に何度か会うだけだった。

その後、父親とよく会うようになって、話なんかもするようになったのは、それから2,3年後のこと。

蜜月時代は瞬く間に過ぎて(夫婦かい?)その後は、仲がいいとはいえない親子関係。

今にして思えば、長く一緒にいなかったせいで、父親に対する期待が大きかったのだろうね、私の。(相手もそうだったかもしれないけどね。俺の娘なら~、なんて。)

でも、今自分が記憶にある父親の歳になって、ああ、あの人はあの人なりに、がんばって親をしていたんだな、と思えるようになった。(もちろん母のことも)

今の自分を見てそう思う。(笑)

父は父なりに、その時、その時、自分でできる限りのことをしていただけなんだろう。

その方法や、実際の行動などをいいとか悪いとかではなくてね。

そして、私が父からもらうべきものは、すべてもらったんだと思う。

他の親と比べるんじゃなくて。

最近はなんだか自分が親にならずに、ずっと娘の立場のまま(語弊がありますが)いる意味がわかったような気がする。

父や母のことを理解するにはそのほうがよかったのかもしれない。と。(あら?言い訳?)

もう、死んじゃって8年。

やっとこさ、安眠させてあげられるようです。

でも、この2,3日、毎日夢に出てくるのは、なじぇ?

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シャーリーが教えてくれたこと

昨日は、お休みの日。

朝から、やりたいことだけ(といっても、やらなくてはいけないこともちょっぴりしましたが)やって過ごした。

最近シャーリーの本を読み返しているのだが、昨日はその中でもちょっとキワモノ系(?)のカミーノ 魂の旅路を読み返した。

話し全体としては、巡礼のたびの話なのだが、その中でシャーリーが過去生を思い出すところが、ちょっと万人受けしないところかもしれない。(詳しくは読んでみてくださいね)

彼女は昔から好きな女優さんで、(何故かうちの母も好き)映画もよく見ていた。

二十歳ぐらいのときだったと思うけれど、ある日丸善に「アウト・オン・ア・リム」が平積みされ、その横に「幽体離脱・・・・魂・・・」というコメントが書かれていた。

その時は、スピリチュアルの「ス」の字も知らなくて、幽霊のようなものはすべて大の苦手で、魂=あの世だったので、「ああ、大好きの女優さんなのに・・・」と、残念がった覚えがある。(怖くて読めなかった)

それから10年以上もたって、いろいろとスピリチュアルな本を読んでから、初めて彼女の本を読んだのだ。

読んだことのある人にはわかると思うけれど、幽体離脱をしようが、瞑想をしようが、スピリチュアルな経験をたくさん積んでいようが、彼女は彼女のまま、なのだ。

怒り、泣き、叫び、混乱し、悪態をつく。

いい人?????なのだ。スピリチュアルな導きを期待して読むと、???だと思う。

でも、私は彼女の本を読むとホッとする。

人としての経験の中から何かを学ぶのだ、ということが、とてもよく伝わってくる。

学ぶためには、怒りも悲しみも、もちろん、悪態だって、必要だということを教えてくれる。

彼女は誰かにこうしろ、と言う代わりに、ただ自分の経験を語ってくれている。

そして、私もこれでいいのだ、という気にさせてくれるのだ。

ありのままを受け入れるということ。

そのためには自分の感情に対してオープンでいること。

それこそが学びになり、答えを見つける鍵となること。

そして、学びの旅に終わりはないことも。

お会いしたことも見たこともない人(映画は別ね)だけど、私にとってはとっても身近な人なのだ。

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恵みの雨

朝は雨の音で目が覚めた。

目を覚ましながら思ったこと。

「ああ、雨だあ、嬉しいな。久しぶり。」

これだけ晴れて暑い日ばかりが続くと、雨が嬉しい。畑も喜ぶ。(トマトは別だけど。)

天からの恵みの雨は、嬉しいのに、どうして人生の雨降りは、辛いんだろう。(と、感じるのだろう)

振り返ると、人生、雨降りや曇り、時には嵐のときもあったけど、今になって思えば、すべてその時、必要だったことばかりなのに。

人生の雨も、天からの雨と同じく私を育んでくれたよな、そういえば。

これからは、人生の中の雨降りにも、天からの恵みと、受け取っていきたいなあ、なあんてことをぼんやり思いながら、起き上がった。

久々のスピリチュアルな目覚め?の朝でした。(笑)

そういえば・・・・

私のソウルボトル。ハートチャクラボトル(ブルー/グリーン)は、天と地の創造力。天と地をつなぐのは、水。そして、すべてを育む。の、だったわ。

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相手と自分は繋がっている。

昨日も書いたけれど、最近『相手と自分は繋がっている』ということが、テーマ。

「神との対話」なんかを読むと、そういうことも書いてあるけれど、最近自分の中にはまってきた感じがする。(この本が出たばかりの頃は、そうは言われてもね~だった。)

道行く人とすれ違ったときにも小さな声で

「この人とも繋がっているるんだ。」

なんて、つぶやいてしまう。

(今日、本屋さんで見たへそだしのナイスバディのお姉さま。私の脂肪があっちに移動すれば・・・・・。あっ、身体は別か。笑。)

まぁ、時々、「繋がっているって、あの人ともですか~?」なんて、思ってしまう人も(どのような人かは、ご想像に)いるけれど、意識ですからね。意識。

そんなことを思いつつ、昨日資源ごみの回収場所へ、ゴミ出しに行った。

よく、浮浪者(?)のおじさんが、アルミ缶を拾っているんだけれど、今までなら、無視(といっても、嫌っているわけではなくて、関係ない人、という感じ。)して、自分のゴミをポイッとしてくるだけだった。

でも、昨日は、『繋がっているんだ』なんて、思いながら行ったら、おじさんが(おばさんが、おじさんと呼ぶのもなんだけれど)アルミ缶を本当は入れてはいけないペットボトルと一緒の袋に入れてあるのを一生懸命分けて(と言っても、自分が必要だからなんだけれど)いたのを見て、思わず「これも入りますか?」って、言って手渡した。

おじさんは、にっこり笑って

「ありがとう~♪」(ほんとに音符がついているような言い方だったのね。)

だって。

なんだか、ゴミを捨てに行っただけなのに、帰り道嬉しくなっちゃった。

「ありがとう♪」

って、いい言葉だね。

特に、音符つきだと、幸せになれる。

いつものようにしていたら、こんなこともなかっただろうね。

相手と私は繋がっている。

もうちょと、探検したいです。この感覚。

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新しいことにチャレンジ!

最近今まで苦手だったことにチャレンジしてみることにしている。

食わず嫌い、という言葉があるように、やらず嫌い、ということもあるかもしれないと、中年おばさんは、一人勝手に思う今日この頃。

(あ、そういえば、マッサージ系も大の苦手だったはず・・・私。はい、今はリフレクソロジストです!)

そう考えたときの最初のしょっぱなが、テレビに出る。(といっても、これは神様のありがたい協力の下、すばらしいタイミングで依頼が来たのだけれどね。)ということだった。

次は、「企画書」なるものを書いてみよう!と思っている。

人が聞いたら、いまさら~?かもしれないけれど、自分の中では苦手な分野。

営業って?なんですか~?みたいなところがあるから。

いろいろな人に相談に乗ってもらって書いてみようと思っているのだけど、まさにこれが、一番苦手だったかもしれない!

人に助けを求める、ということが苦手。甘えべたということもあるけれど、きっと、その歳で、そんなことの知らないのか?とも思われるのが嫌だったのだろうね。

知らないことは、恥ずかしいことではない。なんて思っていても、いざ、実際に感じてみると、恥ずかしいと思っている自分が見えてくる。

ということは、裏を返せば、人のこともそう思ったりしているって言うことだからね。

反省です。

皆さん、お助けくださいね。お返しに私の持っているもの(物体ではありません)で、よければ、ご提供させていただきますから。)

心をいつもオープンにすること。(抽象的ですが・・・)

相手と自分はつながっているということ。

この二つをメインテーマに、新しいこと、苦手だったことにチャレンジしようと思います。

ということで、こんなことも始めてみました。

親指一本!よろしくお願いしますね!人気blogランキングへ

・・・でも、ちゃんと、設定できているのでしょうか?誰かに聞いてみよう。(笑)

↑人差し指一本ですね。(笑)

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人にどう見られるかの心配

初めて自分の出る番組を(といっても、小さな番組だけれど)見た。

思っていたより短い番組で、2分ぐらい。

ホッとするやら、(あれぐらいなら、見逃す人も多いだろうし)残念やら。(だってね、もう2度とない機会だろうから、いっそのこと。笑。)

それにしても、今回のことで自分の気にしていることがいろいろとわかった。

歳をとるのは楽しいわ~、なんて思っているつもりだったけれど、やっぱり、すべすべお肌は、うらやましいようで、しみ、しわ、二の腕のたるみなんかをかなり気にしている。

それに、話している姿は、どんな感じだろう、とか、おばかに思われないだろうか、とか、心配している自分がいる。

「あれで、バレエの先生だって、ぷっ。」とか、思われるんじゃないか、とか、ね。。

自分がどのように人に見られるか。

勝手に、想像して、その心配をする。

でも、それって、裏を返せば、人のこと見るときも自分もそういう目で見ているって事でもある。

だから、気になるんだろうね。

意識しない自分の心の動き。

それがわかって、嬉しいやら、悲しいやら。

だってね、自分の意地悪な目を意識しちゃったから。

まあ、潜在意識が、顕在意識になると変えられるというから、よかったんだよね。(と、一人で納得)

それに、こういうことを他の自分の心にも応用ができそうだし。

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生きているということ

生きているっていうことは奇跡だな、と、このごろつくづく思う。

いつだったか受精だけでもすごい確率だということをテレビ番組でもやっていた。

そして生まれて、育って、歳をとっている。

朝、玄関の階段から落ちることもなく(家は玄関が2階にあるのだ。)歩いていても、車に轢かれていない。

以前働いていた重度身障者の施設では中途障害の方もいて、どうしてそのようになったかを聞いて、人事ではないな、と思った。

自転車で転んで、首の骨を折った人、階段から落ちて、やはり首の骨を折った人。

どちらも、毎日の生活の中で起こりうること、それも特別なことじゃない。

脳性まひの人や遺伝性の疾患で、だんだんと運動機能が衰えてくる人など、いろいろな方がいて、私は、たまたま五体満足で生まれて、何事もなく40過ぎまで生きて来れたんだな、とその施設にいるとき思った。

自分の行きたい所に行きたい時に自分の足で行ける。

当たり前のようなことだけれど、当たり前じゃない。それすら奇跡の中のひとつに過ぎないんじゃないかな、と思う。

当たり前のように生きてきたけれど、その当たり前が、ありがたい。

生きていること、自分で自分のことができるということは、ほんとにありがたいね。

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大人になるということ

先日1年ぶりぐらいに大学の同級だった友人と会ったときの話。

「入学から言うと、もう20年だね。お互い歳はとったけれど、中身は変わらないね、それほど。(笑)」

お互い独身なので、環境も変わらないし、ほんとに、20年?って、感じがした。

20年の間に、それなりに成長した部分もあるけれど(きっと・・・)昔自分が思っていた40代のお・と・な・には、程遠い自分がいる。

あの頃は、40にもなれば、些細なことでは動揺せず、何事にもすばらしく対処できるようになっているだろう、なあーーーんて、思っていたけれど、相も変わらず、些細なことで、落ち込んだみたり、おろおろしたり、舞い上がったりしている自分がいる。

確実に変わっていくのは、顔のしわとおなかのたるみ、記憶力。

「あいやー。」なんて思いながら、それでもひとつぐらいは、お・と・な・の部分があるだろうと、考えながら掃除をしていたとき、ふと思った。

人間としての成熟には、ほど遠いけれど(とほほ)、そういえば、最近は汚れ仕事が平気になったなぁ、と。(もちろん掃除中だったので、きっと、思いついたんだろうね。)

布ナプキンを使い始めた頃は、手洗いするとき最初、「おりゃっ。」が必要だった。(ちょっとした勇気が必要だったってことね。)

人からトイレ掃除を素手でやるといいよ、と言われたときも、最初は、「おりゃーーーー!!!!!」が必要だったし。

でも今では、当たり前にできるし、慣れてきた頃には、逆に自分の汚れ物の責任を取っているようで、少し大人になった気分がしたもんだ。

お蔭様で、おばあちゃんをお風呂に入れるようになったときも、退院してからしばらくはオムツが必要だったときも、「おりゃ」は必要なかった。

そういえば、その時本当に自分は、大人になったなあ、と、感じたのだ。

きっと、20年前の私にはできなかったと思うしね。(やろうともしなかった。)

些細なことだけど、自分の中で確実に成長したと言える部分はこれだけかもしれない。

そんなことを思いながら、ちょっと自分って、大人じゃん。と、褒めてみる。

(世間の皆様はきっと、もっと若い頃から子育てやら何やらで、もっと大変なことをされてきたに違いないと思います。)

あほな40女なのだが・・・。(正確には、40代おんな。40というとさば読んだことになる歳ね。)

そういえば、私のお気に入りフルガムさんの「気がついた時には、火のついたベッドに寝ていた」と言うエッセイの中に「汚れ仕事」というのがあって、そんなことが書いてあったのを思い出し、読み返してみた。

この本に、こうある

『大人の仲間入りをしたかったら、みんなを愛しているからこそ、生ごみを片付ける。

大人であることは、汚れ仕事をすることだ。』

どうやら、フルガムさんによると、とりあえず、私は、大人の仲間入りをしているようで・・・。

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落ち込みの効用

芯がしっかりしているようで(そんなことないか・・・)ふにゃふにゃなところがあるので、他のリフレクソロジストさんが、いろいろな場で活躍をされている記事などを読むと、すごいなあ、と思うと同時に、私は、これでいいのか?と、ちょっぴり落ち込む。

まあ、落ち込みも時には必要で、その落ち込みついでに、今回は私はこれからどのようにリフレクソロジーと関わっていきたいのか?という疑問を自分にぶつけてみた。

ありがたいことに、こうしてブログを書いていると過去の自分に出会える。

過去のブログを読んでみたり、自分はどうしてスクールを開いたのか?などと、自問自答しながら行き着いた先は、そう、やっぱり少しでも多くの方にリフレクソロジーのよさを知ってもらって、生活に活用してもらいたい!だったのだ。

スクールのワンデイでもリフレクソロジーの理論や歴史、反射区のことなどをしっかりとお伝えしているのも、そのためじゃないか、と、改めて思い出した。

ベーシックに力を入れているのもそのためだし。(養成講座にも力は入れていますよ。念のため。)

リフレクソロジーのエッセンスをそのままに、伝えていく。そう、プロを目指す人ばかりにじゃなくてね。

初心に戻れとよく言うけれど、そのとおり、自分のスタンスはしっかり持っていなきゃ。

そういえば、初めてワンデイを受けてくれた方が、今でも家族の方にトリートメントをしている、と言う話をこの間聞いたばかり。

うれしい、ありがたい話。

そういう思いをたくさんしていきたい。これからも。

そうだ、ベーシックの方からも、「リフレクソロジーを習ってよかった。家族が喜んでいます。」なんて、こともいってもらえたっけ。

感謝を忘れて、落ち込んでいる場合じゃないのだ。

反省。

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応援団長は自分

昨日から久しぶりに、ちょっぴり凹み気味。

たまにはよかろうと思って、そのまま凹んでいたのだけど、こういうときこそ、自分を励ましてあげようと、これまた、久しぶりに思いついた。

人に励ましてもらうものとっても元気が出るけれど、やっぱり自分が自分を応援してあげないとね。

ということで、中年おばさんは一人、自分をいいこ、いいこ、してあげたのだ。

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黄色が気になると思ったら

昨日の夢は、なんだか苦しい夢で、お買い物に出かけたのだけれど、ポケットに9千円しかない!と、あせっている夢。

でも、大丈夫、これからお金が入ってくるから、と自分に言い聞かせながら、お買い物を続けている夢。

朝起きてからも、なんだか気分がすぐれずに、夢にとらわれていた。

(まぁ、実際にもいつもお金に追われているような気がするのも事実なのだけど。笑。)

お昼過ぎに、よく考えてみたら何も心配することがないのに、いつも心配する癖がついている自分に気がついた。

心配事って、よく考えてみるとそれほど心配することでもないことなんだよね。

勝手に自分が、心配していることがほとんど。まだ、起こっていないことに関して、ああ、かもしれない、こう、かもしれない、と。

それで、ばかばかしくなって、夕方の空を眺めたら、満月に近いお月様が出ていて、ちょっぴり幸せ気分。

そういえば、この間からと違って、最近黄色が気になって、玄関先にも黄色の花を植えようかと思ったぐらい。

オーラ・ソーマでの、黄色のクオリティは、パニックは自分で作っていることに気がつくこと。

一生懸命穴(墓穴?)を掘っているのは、自分だと気がつくことだった。

今夜は、穏やかな夢が見られそうです。

楽しみだーー。

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人の批判

最近思ったことなんだけれど(おとといも石田さんとその話をした)人のことを批判している自分がいるとき、それは実は自分のことを批判しているということなんだ、って。

自分の中の自分が思う嫌なところがあって、それを相手の中に見るからなんだろう。

自分とあまりにもかけ離れている人の場合だと、批判と言うことはあまりしない。

批判すると言うことは、その人とそれなりの関係か、自分に関わっている問題のほうが多いから。

自分の中の見たくない面を見せられるから、批判することによって、「私は、この人と違うわ」、と思いたいのだろうね、きっと。

少なくとも私の場合、そうみたい。

じゃあ、これからは、人のことを批判するとき、自分の中の問題をその人が教えてくれている、と思えばいいんだよね。感謝。

と、勝手に納得。(おお、久しぶり!)

そういえば、シャーリーの本の中に、「人を指差すとき、他の3本は自分を指差しているのよ。」というのが、あった。

今、久しぶりにシャーリーの本を読み返し終えたのも、何か理由があるのかしらん?

(ちなみに、オール・イン・ザ・プレイング)

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お久しぶりです。

ここのところ、さっぱりブログを書いておりませんでした。

GW中のんびりさせてもらったお陰で、(おお、何年振りじゃ?だけど)心に思うことがいっぱいあって、心も身体もずいぶんと軽くなりました。

日記に書こうとも思ったのだけれど、どうも言葉に表せない。

きっと、人とシェアする必要のないものなんだろうね。

ということで、自分の中で、気付き、そして、私の心と身体の中に流れていけばいいこと、だったんだと勝手に納得。(笑)

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許す

人生は「許す」を学ぶための修行のようなもの、というけれど、まずは自分を許すことから始まるような気がする、今日のこのごろ。

怒る自分を許し、感情的になる自分も許し、愚痴っぽかったり、ちょっと意地悪なものの見方をしている自分も、許す。

惰眠をむさぼる自分を許し、心に余裕のなくなった自分も許す。

何せ、凡人なるゆえ、表は取り繕っても、心の中には、意地悪な自分もいれば、愚痴っている自分もいる。人に批判的になったり、怒っている自分もいるのだ。

自分の心には、うそをつけない。

ということで、まぁ、最後には、許せない自分すら、許す。(笑)

そうすることができたら、魂の螺旋階段も、三段跳びぐらいになるんじゃないかしら?

でも、螺旋階段の三段跳びって、かなり高度な技術がいるよね、きっと。やったことないけど・・・・。修行に、近道はないっていることね。

と、久しぶりに、勝手に納得。

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何もしなくても大丈夫

今週は、先日書いたとおり、どうも調子がいまいちだった。

現金なやつだから、月曜に元気になったと書いたけれど、なじぇか、火曜日は、アトピーがまた出てきて、ブルー。

もう自分に問いかけるだけ、

「なじぇ?」

心に何かわだかまっていることでもあるのかしら?とか、本当は仕事をするのがいやで、このまま南の島に行きたいと思っているのかしら?とか(これはいつものことだけれど。南の島に行きたいのがね、仕事は、好きです。)ただ単に、最近ばか笑いしてないからかしら?とか(リンパ球狂っている?)おばあちゃんの世話がいやなのか?とか、いろいろ考えても、ピンとこない。

ああ、こういうときには、ぼーっとするに限るのだが、かゆみがあって、ボーっとしてられない。(ボーっとするって、簡単なことじゃないのね・・・)

しょうがなく、もんもんと、久しぶりにソファと、親交を暖めていると、ふと、心に浮かんだ。

「ああ、何かをしていない私なんて、存在価値がないと、心のどこかで思っているんだわ。」

仕事をしてなんぼ、とか、おばあちゃんの世話をしてなんぼ、とか。

どうも、そうらしいので、思い切って、火曜、水曜は、引きこもり。

何もしない自分を認めて大事にしてあげる。

マハボテカードにも、「自分を愛しなさい、そしてカップからあふれた愛が人に与えられるのです。」(いつものようにうろ覚えだけど)

今自分がいるだけで素晴らしいのだ。

自分のことをそう思うことができれば、人のことだってもちろん、そう思える。

存在だけで素晴らしいのだから、その上、仕事までして、おばあちゃんの世話までして、私は、素晴らしい。(ちょっと、本気。笑。)

やらねばならぬ。やらなければ。は、ちょっとお休みしたら、今日は、すがすがしい朝が、やってきた。

そういえば、最近は、あんまり自分を褒めてあげてなかったわ~。

『何もしていなくても大丈夫。存在だけで、素晴らしい。』

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パワー

週末スクールもあったのだが、その後これからの仕事の打ち合わせ、日曜も、そのほかの人たちを交えて、これまた打ち合わせが続いたせいなのか、それとも、スクールで受けたトリートメントの好転反応か(と言っても最近は、楽をさせていただいておりますが・・・)日曜の夕方から身体がだるくてしょうがない。(エネルギー不足って感じ)

今朝もなんだかすっきりしない。

おばあちゃんのところでご飯を食べていても、身体がぼわーーーんとしている。

でもそのとき何気なく心に浮かんだことがある。

最近の私って、お金=パワー、と、考えすぎていたみたい、だってこと。

もちろん今までも、「お金も(ここ重要)、パワー」だと、思っていたけれど、知らず知らず「お金が、パワー」に、傾いていたよう。

もちろん、これからスチューデントサロンやら、ハンドケア、フットケア、ネイルの方との仕事など、新しいことを始めようとしているので、いろいろ不安なこともあるけれど。

どうやら、私は、受講生の方たちに対していつもの癖で、背負い込みすぎていたようなのだ。(それも、経済的なことで)

一月にこれぐらいの集客がなければ、寂しいだろうな、とか。私がもっと経済的に豊かだったら、宣伝もたくさんしてあげられるだろうに、とか、最低の金額保障はしてあげられるのに、とか。今の私には、お金に余裕がない=エネルギーにも、余裕がない。という、思い込みが現実になって現れるということを体験していたのだ。

スチューデントサロンと言っても、私の下で働く、と言うことではなくて、私のところを使うけれど、皆がそれぞれプロとして、自分のクライアントに責任を持っていく、というスタイルなので、私が一人気張ってもしょうがないにね。

それに皆さんも経済的なことは二の次で、まずは、経験を積ませてもらうところ、という意識が強いし、集客も経験のひとつと、とらえてくれているようなのに。

おろかにも、金銭的なもので自分を追い込んでいたようなのだ。

私一人が、がんばるわけじゃなくて、これから皆で、広げていけばいいのに。

皆と力を合わせれば、これからどんどんよくなるはず、そしたら、自然とお金もついてくる。

皆との、パワーが、お金のパワーになったり、新しいことを始めるパワーになったりするのであって、お金のパワーが、新しい仕事のパワーになるんじゃないんだ、何心配していたんだろう、と思ったら、いきなり身体が軽くなった。(はぁ、現金なやつですいません・・・)

打ち合わせでは、皆で力を合わせていけば、うまくいくなんて言っていたのに。

自分がどこにパワーの源をみているかで、身体も変わるっていうことを改めて感じた朝だった。

ということで、皆様、2月4日(日)からのスチューデントサロン、よろしくお願いします!

詳しくは、HPにUPしますね。

3月からは、ハンドケア(甘皮処理など)フットケア、ネイル、なども、受けていただけるようになります。

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偶然より必然

物事って、何かしら目に見えないものが働いて、うまく運ぶようになっているなぁ、と、最近つくづく感じる。

先日とあるところの仕事を頼まれて、受講生を紹介することになったのだが、そこが、オープニングパーティを開くというので、二人で出かけることになっていた。

詳細もまだ決まっておらず、現場も見ていないので、現場を見てからでも決めるのはおそくはないわ~、なんて気軽に考えていたのだ。

面白いのが、それから。

その話の後に入っていた予約が、そこの仕事にかかわりそうな人だったし、半年振りに会う受講生の方は、「今、リフレクソロジーがしたくてしょうがない」と言う。また、ほかの受講生の方は、突然予約を入れてきた。(本来なら、年内は会う予定のない方)

それぞれに仕事の話をして、パーティーに誘うと、普段は忙しい人たちばかりのはずなのに皆さんの返事は、イエス。その日は空いているという。

と言うことで、最終的には5名で伺うこととなったのだ。

当然のことながら、私以外の方たちは、面識があるぐらいか、ほぼ初対面。

なのに、最初から違和感なくまとまっている。

それぞれの方たち、個性派ぞろいなのに。

パーティーの後、まだ仕事がある方一人を残し、残りはほかの店に移動。

そこでも、とっても盛り上がり、楽しい時間を過ごすことができた。

なんと、まぁ、新年会の約束までしてしまった。

その後、いろいろな理由で、その仕事の話はなくなったのだけれど、その仕事の話とそのとき集まったメンバーが、きっかけで、今回のスチューデントサロンの話しが出たのだ。

呼んだわけでもないのに、そのときに集まるべくして集まった人たち。

そういえば、帰り道「この仕事がうまくいかなくても、今日このメンバーが集まった、と言うことに理由があるかもしれないね。」なぁんてことを言っていたのだ、私。

予知能力か、直観かわからないけれど、結果的にはそうだった。

やっぱり、偶然ではなくて、必然なんだね。

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何事も繋がっていて

久しぶりの勝手に納得ですが・・・。

最近は、あれっと、思うようなことや、ありゃりゃ、ということまで、起こったときには、あおれまぁ、ということが、結果的には、いわゆる「結果オーライ」という事が続いている。

先日購入したリクライニングチェアだって、最初は、ページをよく見ずに違う色を注文していたのだが、後で見直すと、「あれ、黒もある。黒がよかったよ~。」と、だめもとで、メールで、変更がきくか確認したのだが、それがまたいい結果になった。

実は、土曜日に間に合うように注文したかったのだが、自動の注文ページは、来週の月曜からしかお届け希望日がなかったのだ。

しかたなく、月曜に配達にしたのだけれど、色を変更したおかげで、もっと早く配達もできますよ、と知らせてくれたのだ。

「おお、せっかちに、色を確認せずに注文してよかった。」と、へんな喜び方をする結果となったのだ。

日曜も急な仕事が入り、おばあちゃんのところに行くのが遅れて、買い物をする暇もなく、しょうがないので、簡単に牡蠣の味噌なべにしたのだが、月曜、久しぶりに寝坊をし、起きたらなんと!9時半!

あわてておばあちゃんのところに電話をすると(だって、朝ごはんが・・・)「昨日の残りで雑炊作ったよ~。」という返事。

「はぁ、時間がなくて、なべにしてよかった。」と、(日曜は、これからご飯を作るのか・・・と、少々くたびれモードだったにもかかわらず)またまた、一安心したのだ。

奇跡と呼べない小さな出来事だけれど、何事も繋がっていて、これから起こることのために、何かと何かが作用して、ことを起こすんだな、と思う。

そういう場合って、一見悪いことや面倒なことが起こったな、思うときが多いのは、気のせいかしら?

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インド式ヘッドマッサージ講習

先日のインド式ヘッドマッサージは、リフレクソロジーのベーシックに養成講座の方が補講として参加されたときに、ヘッドを習いたいと、意見が一致したから、「じゃ、やりましょう。」ということで、開講したのだけれど、リフレクソロジーのコースとは違った面白さがあった。

リフレクソロジーと違って、ヘッドマッサージは、動きのあるトリートメントなので、2日間続けて行うと、かなり筋トレ状態になる。(指の筋トレにもね)

昨日も皆さん帰る頃には、かなり足やらお尻やらが、くたびれたらしいし。(私の場合は、取りあえずバレエで鍛えて(?)あるので、大丈夫なのだが)

きっと、毎日やると、お尻とお腹がしまってくるに違いない。(笑)

それと、みんなで爆笑したのが、以前、私がある会社に頼まれて、お客様へのサービスになるか?ということで、ヘッドマッサージを試験的に行ったときの話。

あるサービス業のその会社。ヘッドマッサージを行うスペースに、従業員の方が「マッサージどうぞ!」と、そこのお客様を強引につれてきたのだが、なんと!その方は、どうみても「か・つ・ら」

まさか、「お客様は、カツラをつけていらっしゃるので、お取りください。」とか、「カツラの方は、お断りします」とも言えず、まさか、気付かぬふりで、カツラの上から、行うことなんて、想像しただけでも怖くてできない・・・・。

心の中では、そこの従業員に、「おっさん、ヘッドの意味知ってのんのか!」と叫びながら、笑顔で、ご本人には「ヘッドマッサージですけれど、お時間がなければ、肩だけでもいかがですか?」と、言うしかなかった・・・。

ご本人も、「そうだな、頭は、凝ってないから、肩だけでいいよ。」と、当たり前のリアクションで、結局背中と肩、顔、耳をやって、終了。

そこの責任者の仕事のいい加減さに、うんざりしたのを覚えている。(もちろん、その後、その仕事の話は立ち消えになったのは言うまでもない。)でも、思い出すと笑えるのだ、ヘッドマッサージだと知ったそのときのそのおじさんの顔を。

他にも面白い事があった、モデルとしてきていただいた方と、今回の受講生の方が、他のセミナーで、一緒だったことに気がついたり、差し入れの「うなぎパイ」を食べながら、コーヒーをみんなで飲んでいるとき、箱のチラシを見たら、なんと、「うなぎパイ V.S.O.P.」なんてものがあり、それは、なんと、「夜のお菓子」じゃなくて、「真夜中のお菓子」らしい。

来月、3回目の復習を兼ねた講習があるのだけれど、また、みんなで、笑わなきゃ。

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変わっていくものと変わらないもの

お陰さまで、いろいろな方から仕事についてアドバイスをいただく事が多い。

HPのこと、スクールのこと、トリートメントのことや、会計のことまで。

よく言えば、素直(?)なので、「あ、それいいな」と思ったアドバイスは、すぐに採用させていただく。ひとりで思いつく事は、知れている。それに、物の見方も、限られている。なので、自分の利益にならないのに、的確なアドバイスをしてくださるお客様や受講生の方には、とても感謝している。ひとりで仕事をしているようで、実は、いろいろな方が今の「あなはた」を作ってくれた様なものなのだ。

だから、料金の事やスクールのカリキュラムなどもどんどんと変更する事が多い。

でもそれは、トリートメントや、スクールが、よりよくなるための変化。

リフレクソロジーをよい形でより多くの方に知ってもらいたいという気持ちは変わらない。

変わらないものの為に、変わっていくことが必要なんだろうね、きっと。

と、久しぶりに、ひとりで納得、なのだ。

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つくづくと、

この仕事に出会うきっかけとなった人から聞いた話。

「だれでも、人生は、自分でプログラムしてくるのだけど、答えを知っていると、勉強にならないから、生まれてくるときに忘れてしまう。だけど、人生の難関や困ったときは、ちゃんと誰かに助けてもらうように、お願いしてくるから大丈夫。」

最近つくづくと、そう思う。

今回は、元気だったおばあちゃんが、突然歩けなくなったけど、姉は丁度ヘルパーの仕事を始めたばかりだったし、よいケアマネージャーさんとも出会えた。(最近は、家族でも、ヘルパーとして、入ることが可能なのだ)

私は私で、お陰さまで、自分の仕事が順調なので、心の余裕を持っておばあちゃんの世話ができる。

最初の話を聞いたことがなければ、「ああ、丁度よかったね。」と、簡単に済んでしまっていることかもしれないけれど、これも神様のお陰と、自分のプログラム(この場合はおばあちゃんのプログラム)なのかな、と、しみじみと思う。

これまでも振り返ってみると、いろいろなところで、いろいろな人に助けてもらってきたなぁ、と思うのだ。(当たり前だけれど)

何気なくこぼした愚痴にアドバイスをもらって、道が開けた、とか、支払いどうしようと、気を揉んでいるとき、いつもより早く受講料の振込みがあったりとか、天使は、いろんな姿でやってくる。

きつい言葉で、叱ってくれた人とか(時には、悪魔の姿もしてくるのだ)、ボーっと見ていた映画の中の台詞とか、通りすがりの赤ちゃんの笑顔とかね。

そういったことが、度々起こると、どんな事があっても、大丈夫なんだろうなぁ、この先も。なぁんて、思えてくるから。

きっと私のことだから、人より沢山の人たちにお助けをお願いしていると、思うから。

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楽しいは、楽じゃない。

この間、NHKの番組に、(おばあちゃんのところにいるのが多いから)小沢征爾さんの息子さんで、俳優の方(名前を忘れて申し訳ない)が、出ていた。

緒方拳さんに影響されて、書が趣味のようで、筆ペンを持ち歩いているらしい。そういうお話の後何点か作品を披露されていたのだが、その中に

「楽しいは、楽じゃない」

と言う、言葉があったのだ。

それを見て、「そうなんだよねぇ」と、うなずいてしまった。(ご本人から見れば、私なんぞにうなずいてもらっても、嬉しくないかもしれないが・・・)

以前にバレエを教えている子供お母さんに、「楽しくバレエをやってもらえばいいです。」と言われたことがある。でも、バレエは、はっきり言って、楽しくなんかない。しんどい。特に基礎は、つまんないし。そのしんどく、つまんないレッスンを続けていると、回れたり、飛べたり、素敵なアラベスクで、バランスを取れたりが、できるようになって、それが、楽しいのだ。頑張った分だけ、何かができるようになって、喜びを感じる時。

でも、きっと、このお母さんの楽しいは、「楽」の楽しいだったのだろう。それからにすぐに、子供はクラスを辞めていった。

昨日の続きではないけれど、この仕事を大好きだけど、辛いことだって一杯ある。

小さいとはいえ、スクールやトリートメントルームを維持していかなきゃいけないし、勉強だって、これでいいということはない。

でも、好きだし、楽しい。沢山の喜びを与えてくれる。

「楽しいは、楽じゃない。」

そうだよね、

「辛い事も沢山あったけれど、楽しかった。」

と言う言葉もよく聞くもんね。

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まずは自分から

お陰さまで、おばあちゃんの状態はとてもよい。ひとりで、お米を研いだり、お洗濯したり、入院するまでのあの痛みはなんだったの?というほど、以前の生活に戻ってきている。きっと、病院の先生が見たら、驚くだろうね、「手術しなくちゃ、・・・・」一点張りだったから。

2,3日おきのリフレクソロジーの効果なのか、単にうちのおばあちゃんの根性がそうさせるのか、それはどうかわからない、もしかしたら、おばあちゃんを取り巻く環境を変えるために、神様の見えざる手が、一時症状を悪化させたのかもしれない。まぁ、それこそ神のみ知る、だけれど。

それにどういうわけか、おばあちゃんが退院してきてから、私の仕事も忙しくて、おばあちゃんの世話、仕事、で、40過ぎの女は、少々バテ気味。最近ようやくペースがつかめてきて、時間的にも余裕ができてきた。

おばあちゃんの世話をするなら、普通に考えると暇なほうがよいわけなんだけれど、忙しいほうが私の心が楽。

もし暇なら(ううう、独身女の自営業は、仕事がなくては生きていけないのじゃ)自分の生活が心配になる。きっと、心に余裕がなくなって、「おばあちゃんお世話があるから、暇なんだ・・・」なーんて、落ち込むんだろうな。(落ち込むだけで済んだらいいほうだけど)

だから、今忙しいほうが、心はとっても楽なのだ。

身体の疲れは、ぐっすりとした眠りをつれてきてくれる。心の疲れは、睡眠を奪う。

それに、人の世話は、自分の心に余裕がないと、辛いし、続かない。

まずは自分の安定から。

最近の私は、一見神様にいじめられているようで、実は応援してもらっているのだ。ありがたいことに。

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お陰さまで

おばあちゃんが無事に退院しました。

ありがたいことに、痛みは多少出るものの、今までどおりひとり暮らしができそう。

今のところ朝、昼、晩とご飯を作りにいって、一緒に食べて、洗濯や掃除をして、夜は、帰ってくるのだが、私の家は、おばあちゃんのところと道を隔てた斜め向かいなので、敷地内に道路が通る豪邸に住んでいると思えば、ほとんど同居しているのと変わらない。

それと、ありがたいことに、この2,3日の間、仕事の予約も、いい感じで入ってくれたので、仕事とおばあちゃんの世話と無理がない。

自分の心に従っていると、いろいろな事が無理なく回る。

そういうことを教えてくれた今回のおばあちゃんの入院。

起こること全てに、意味があるよう・・・。

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全てはうまく行く

具体的なことを書くと長くなるので書かないけれど、最近、本当に全ては、うまく流れていく。と感じる。

全てはよいタイミングで、やるべきことをやるように流れていく。

それに自然にしたがっていると、うまく行くのだ。

逆らうと、心がイライラしたり、物事がうまく運ばなかったり。

現実は自分で創るというけれど、自分で創った流れにせよ、神様が与えてくれた現実にせよ、抵抗を止めるとうまく行くことが多いのだ。

もがけば水の中に沈んでしまう。

身体の力を抜けば自然と水に浮かぶから。

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健康も中庸の道?

最近は健康ブームだけど。

お酒も飲まず、タバコも吸わず、早寝早起きで、お肉控えめ、野菜はたっぷり、様々なサプリを摂って、適度な運動・・・・

うーん、健康そのものの生活。(ちなみに私のことではありません。)

だけど、心の中に怒りや、悲しみを抱えていたり、いつも何か悪い事は全て人のせいにしていたら、果たして、健やかになれるだろうか?

また、あまりに健康に気を使うあまり、その生活を守る事が目標になったりして、その通りにことが運ばないとストレスになったり。

お腹一杯食べる事も、お酒も、夜更かしも、タバコも、お肉たっぷりの食事も、楽しい時間を過ごせたなら、それで、O.Kだと思うのだ。(時々ね)

自棄食い、自棄酒、自棄タバコ(?)、ストレス性の不眠が、問題なんだろうね。

人の身体は、楽しい、嬉しい、と感じると、よいものが分泌されるようになっている。

お釈迦様も、中庸の道が、大事だといっている。(こじつけか?)

昨日もおばあちゃんが、「今まで、自分の身体をもっと大事にすればよかった・・・」と、ぽつりと言った。(いつも頑張りやさんだからね。きっと、頑張らなくてもよかった、という意味で言ったと思う。)

いい意味の自己中と、自分が、楽しいと思える時間を過ごす事は、心と身体にとてもよいと思うのだ。

ということで、自分の生活の言い訳をしているのけどね。(毎度の事)

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まだまだこれから

お客様やうちでアロマをお願いしている石田さんとも、話していた事なのだが、人生はまだまだこれから、っていうこと。

私の場合30歳位が一番「自分はもう歳だから」と、感じていたような気がするのだが、私だけではなかったみたい。

30歳から今までの10年間で、人生はずいぶんと変わった。

仕事にするなどとは、思わずに33歳の時に受けたリフレクソロジーのコースが、今の職業になっている。(こんなにリフレクソロジーが好きになるとは!)

リフレクソロジーの仕事がすこーし軌道に乗って、さぁ、身体を今度は整えよう、と35歳で始めたバレエを今ではなんと!教えている。(ええんかいな、だけど)

うちのおばあちゃんに比べたら、私の人生なんてまだ、半分もいっていない。

これからだって、いろんな可能性があるはず。

もう歳、なんて思わずに、自分のやりたい事には、挑戦すべきだね。

ずいぶん前だけれど、お客様に聞いた話。

80歳を超えているおじいちゃんが、孫に尋ねた

「大きくなったら、何になりたい?」

「~になりたい。で、おじいちゃんは、何になりたいの?」

だって。

子供は、偉大な教師だ。

いつも何かに気付かせてくれる・・・。

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生まれて初めて

自転車をこいだらしい、うちのおばあちゃん。(と言っても、リハビリの自転車なんだけど。)

90歳まで生きてきて、初めての経験。

「昨日はね、自転車こいだよ~。」と、嬉しそうに話してくれた。

「いやぁ、見たかったわ~。」

と言うと、にっこり笑っていた。

3日ほどの検査入院のはずが、どうやら、少し長引くよう。

それに、時々痛みが強くなるらしく、しばらく様子見。

でも、リハビリは、毎日行うようなので、少し安心。(家にいて、寝てばかりだと、筋肉が瞬く間に落ちるので。)

それに、また、自転車こげるかも?本人も、また、こぎたそうだったし。(だからそういうときは、痛みはあまり感じないみたい。人間楽しい事が一番ね。)

おばあちゃんの自転車じゃないけれど、人って、人生で経験しない事って、意外と多いんだなぁ、と、感じた。

いくつになっても、「初めて」は、あるのだ。

ということは、私もまだまだこれから。

どんな経験が待っていることやら、少し、ワクワク。そして、ドキドキ。

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予定変更

昨日のニューズレターの打ち合わせは、どういうわけか、皆さんの都合により変更になった。

一品持ち寄りなので、仕事の都合で、朝から、簡単なの物を作り、雨の中荷物を持って、おいこらしょ、っと、自転車をこぎながら、栄に向かった。

と、その後の変更で、お料理がいらなくなってしまったのだ。

ちょっぴり、残念で、なんとなく、気抜け・・・まあ、たいした料理ではないのだけれどね。

仕事が終わってから、デパートにお野菜を買いに出かけ、久しぶりにフォッションにも寄ったら、なんと、バゲットが焼きたてー。

香ばしい香りがあたり一面に広がっている。

早速買って、栄の仕事場に帰り、しばらく自主トレ。

そう言えば今夜はおばあちゃんのことは姉に頼んであるので、久しぶりにのんびり過ごせる夜。

シャワーで、汗を流し、ビールを飲んで、バゲットをほうばる。

よい香り~。

心地よい風も吹いて、冷たい白ワインが(安物ではあるが)とってもおいしい。

打ち合わせで、皆さんに会えなかったのは残念だったけれど、のんびりとした土曜の夜をプレゼントしてもらった気分。

急な予定変更や、やりたい事が何かに邪魔される時は、本来行くべき方向に、戻してもらっている様な気がする。

そのときは、エッと、思う事も、後になってみれば・・・・ということが多いのだ。

現実は自分が創っているというけれど、時々神様は、見るに見かねて、そっと、力を貸してくれるようだ。

きっと今の私にとっては、気がかりなくのんびりとした時間を過ごす事が大切だったようで。

今日は朝から、すがすがしい気分で、お掃除と洗濯。

朝の物干し場の風も気持ちよかった。

ささやかな、夏休みでございます。

ありがたや~。

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塞ぎ虫の特効薬

なんとなく心が塞いでいるなぁ、と思うとき、R・フルガムさんのエッセイを読むようにしている。(読んだ事がある人にはわかる、タイトルもぱくってます。)

ちなみにフルガムさんの場合は、ベートーヴェンの第九を大音量で(ヘッドホンでね)聞くらしい。

この人書いている物を読むと、人はろくでもないことをしでかす事もあるし、人生にも、いろいろな事が起こる、それでも、人も人生も、捨てたものではないし、信じてみるものいいもんだ、という気になるのだ。

自分がちっぽけに見えたり、なぁんにもいい事なんて、ありゃしない、と、感じる時の特効薬。(使用上の注意・・・万人に効果があるとは限りませんが、使用量は、各自お好みで。)

ここのところの長雨や、仕事が暇(これはいつでもか、笑。)なのも、あいまって、なんとなく顔から表情が消えていきそうな気がしていたんだけれど、朝、本棚に目をやって気が付いたのだ、特効薬の存在を。

それと、少々のユーモアがあれば、大抵は大丈夫。

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身体のたるみと、心のたるみ

5,6月のテキスト更新と勉強で、お腹から、おしりから、たるんでおりまして、今週は、自主トレにいそしむ毎日です。(仕事しろって?ご予約お待ちしております・・・・)

今週のレッスンで、身体のたるみが最高潮と判明。このままではいくら先生で、40過ぎているとはいえ、言い訳にはなりません。

暑いけど、ほぼ毎日自主トレをしているのだけれど、日々からだが締まるのがわかる。

自主トレに出かけたときと、帰りでは、ジーンズの引っかかる腰の位置が違う。

ということは、してなかったら、その分、位置がだんだん上に、上がるという事ね・・・怖い・・・。(というか、今までがそうだったんだって)

やればやっただけの事は、あるのね、やっぱり。

鏡に汗振りまきながらまわったピルエットは無駄ではないという事。

身体のたるみには、わりと、気がつくのが早いからいいけれど、(と言っても、気が付いたときは、ギャーーーですが)心のたるみは、なかなか気が付かない。

最近勉強にはいそしんでいたけれど、その他の事がたるんでいたというか、乱れていたというか(夜遊びとか、男遊びとかじゃないですよ←してみたい。笑。)それにも気が付いたんだよね。身体を通して。

経営の事とか、いろいろ悩む事はあるけれど、悩んで解決するもあるけれど、その悩みに支配されては、ね。

まずは自分の心が、楽しくある事、健やかである事、それから始めなきゃ。

急に予約が入ったら、と、自主トレをするのを後回しにしているより、動きたい!って言う自分の気持ちに、従う事。そうすると心も身体も気持ちいい。

悶々として、身体がたるんだリフレクソロジストより、気持ちよく身体を動かして、引き締まったリフレクソロジストのほうが、素敵。

いろいろと言い訳をしていたのは、実は身体のたるみではなくて、心のたるみだったようで、(たるみというか問題ね)お陰さまで、今週は、心も身体も健やかに過ごしております。

心に身体はついてくるというけれど、気がつかせてくれるのは、圧倒的に身体なんだよね。

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信じるものは救われる?

2,3日前、おばあちゃんのところから帰ってくる道で、(と言っても、すぐそばなんだけど)若い兄さんに、「すいません」と、呼び止められた。(中区と言っても、住宅地だから、夜は、意外と暗い)

思わず、一瞬ひるんでしまった。(体も腰がちょっと引けました)

普段通らない道を通って、道に迷ってしまったらしく、それからは、「ああ行って、こう行って・・・」と、普通に話し、「ありがとうございます。」と礼儀も正しく、お別れしたのだ。

あとになって、考えると、最近は、いろいろな事件があるとはいえ、道を尋ねてきただけの人にも、警戒する自分が、なんだか情けなくて(人を最初から、疑う自分がいるということで)いやだなぁ、って思った。

どちらかと言うと、人を信じやすくて、「え?そんなこと信じているの?」と、人から、言われるほどだったのに、歳を取るにつれ、警戒心のほうが先にたつのか、はたまた、テレビ報道のせいか、われながら、悲しい状況。

他の事でも、前より人を信じない傾向にあるよう。

確かに、いろいろな人がいるので、嫌な思いをしてきたのも事実だけど、今回のことで、最初から、疑いの目で見たり、信用しなかったりするより、やっぱり、信じて裏切られたほうが自分の心には、安らか。

まぁ、キリストも「信じて疑わなければ、願いは叶う。」と言っているので、人を信じれば、願いは叶うんだろう。(ちょっと違う?)

その道を尋ねてきたお兄さんとは、その後出かけたコンビニで再び出会い、帰っていくときも、「今日は助かりました。」と、律儀にも、再びお礼をいって、去って行ったのだ。

変な人かも、と、ひるんだ私が、恥ずかしい。

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依存?

いつだったか、ぱにちゃんから、まわってきたバトン(このブログには書いていませんが)の中に、亭主関白な人がいいか、それとも積極的に家事を手伝ってくれる人がいいか?という質問があった記憶があるのだが、答えは、「できないから、してもらう人は、困るけど、できるけどしてもらっている人なら、大丈夫」という事を書いた覚えがある。

最近、それが自分にも当てはまることがあって、知らないところで人に依存していたというか、頼っていたというか、そのことに気が付いた。

そういえば、いつも誰かに頼ってばかりで、人のご機嫌を取らなくてはいけないような仕事の仕方をしている知り合いがいたけれど、見ていて、こちらのほうが、辛かった。

足元を見られているわけじゃないし、私の場合だけかもしれないけれど(それに相手によっても違うだろうけれど)相手の無理を聞いてしまったいた自分がいた。

自分の中にもそういうところがあったということに、少し驚いたが、それをきっかけに、自分でやるようになったら、心がとても軽い。

まぁ、私の場合、自分に対する過小評価と、めんどくさい、という、二つの理由があったのだけれど。

新しいことを始める時に、不安から、現状維持で、少し位我慢したほうがよいと感じることもあるけれど、心に無理があるときは、チャンス!とばかりに、心が軽くなる道を選んだほうが、うまくいくように思う。

それにまた、私の場合、お陰さまで、自分の可能性が広がったし。

何事も、最後には、めでたし、めでたしなのだ。

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怒り

この間、広告の営業の電話に、なんだか嫌な対応をしてしまい、電話を切った後に、しばらく落ち込んだ。

結構しつこかったのは、確かだが、自分のその時の心の余裕のなさに、がっくし。

自分にそれほど関係のない人に怒ったりするのって、きっと、違う怒りを抱えているからなんだろうな、と思う。

怒りの対象に素直に向かっていければ、それなりになにか道が開けたりするんだろうけれど、怒りの感情だけをなにか別のものに向けるから、心もしんどくなる。

まァ、でも、それも自分が今怒りを抱えているんだよ、と気付かせてくれるので、ありがたい事なんだけど。

人の身体も、何か問題が起こったとき、侵害受容器に刺激が行って、「痛い」とか、「痒い」とかを感じさせるようになっている。それは、障害を意識させる事によって、(本人にね)対処する行動を取らせるためなんだよね。

怒りや不満、悲しみ、なんかの否定的な感情といわれるものでも、何かを知らせてくれているんだ、と、改めて感じたな。この間は。

必要でないものはないね、どこにも。

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人との縁

毎度思うのだが、同じような事を書いている。

前にも書いたと思うけど、人との縁とは、不思議だなと、思う。

ながーーくお付き合いする人もいれば、人生のほんの短い間のお付き合いの事もあるし、途絶えていた関係があるとき急に復活したり。

どの縁がよいとか、悪いとかではなくて、どの縁にもすべて理由があると思う。

そのつながりが、まさに袂を分かつような別れであっても、自然消滅であっても、お互いが何かしら、必要であって、結ばれた縁だし、また、何か必要があって、別れる、ということもあると思うのだ。

今年に入ってからも、そういうことを考えていたけれど、最近また、いろいろなご縁をいただいて、ご縁も別れも必然だなぁ、と思うのだ。

無駄なつながりなんて、あるわけない。

彼と別れるときなんか「何であんな野郎と」なんて、思う事もしばしばだったけど(過去形・・・・)気が付かないだけで、お互い何かやり取りして、そして影響しあっていたんだよね。

そして、無駄な事はひとつもないんだと思う。

全ての事にいちいち意味を見出す必要はないと思うけど、どのようなご縁でも、自分にとってはありがたい事なんだな、と思う今日この頃なのだ。

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ベビ-マッサージ

今日は、ベビーマッサージの日だった。

今回は、月齢幅が広くて、同じ赤ちゃんと呼んでいいのかしら?というぐらいにサイズが違う。

1ヶ月、3ヶ月、10ヶ月の赤ちゃん。

今回も、とくに何事もなく、マッサージを終了。

今回の特徴は、皆さん、お父様も一緒に参加されていて、そして、とてもお二人で上手に、マッサージを行っていた事。

二人で、子育てしているんだなぁ、というのが、とても伝わってきた。

独身おばばも、しばし、ほんわか幸せエネルギーをもらって、いい気分。

あぁーー、これだから、ベビーマッサージは、止められない、止まらないのです。

赤ちゃんは、存在だけで素晴らしい。

でも、私もそういう時期があったのだ。いきなり、おばばとして、この世に現れたのではない

どうせ、私なんか!なんて、思ったら、すでに、赤ちゃん時代に社会貢献してるからと、自分を慰めてよう。

だって、みんな、ほんとにそうなんだから。

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人は勝手

庭に一坪畑をするようになってから、雨を望む事が多くなった。

その昔、幼少(?)のころは、将来は、お金持ちになって、雨が降るときは、飛行機に乗って、雨が降っていないところに行くんだ!と言って、父親に「アホ!それなら、カリフォルニアに住め!」と言われたことがあるぐらい雨が嫌いだったのに。(最近は、畑に関係なく雨も好きだけど)

人って、立場や時間によっても、望むことが変わってくるし、違う。

勝手やな、ほんまに~。

*ちなみに、昔は蝶々を見ると、「おお、いいなぁ」なぁーんて思っていたけれど、最近は、うちの小松菜に卵産むつもりだな。だもんね。はぁ~。

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情けは人のためならず

生きてきた時間が長くなると、今までわからなかった事が、実感を伴ってわかってくる時がある。

若い時は、変な下心もなく純粋に人のために何かをしてあげる喜びを感じていたりした。

歳をとると、人に何かをしてあげる時も何らかの見返りを期待している自分がいたりするので(私だけ?)若かった時の純粋さを眩しくかんじる。

何十年も前に自分がしてきたことが、今になって、自分に返ってくることがあるのだ。

それがよい事でも悪い事でも。

あまりにも時間がたっているから、自分では気が付かないこともあると思うけれど、全てつながっている。

魂の貯金通帳のようなものかしらん?

情けは人のためならずって、言うけれど、そうなんだなと、実感した今日この頃。

人のためじゃなくて、自分のためにしているんだ。それに、誰かを助けてあげたりしたら、気分がいい。それだけでも、充分。

おばあちゃんがこの間言っていた

「誰かを助けてあげたら、そのうちいいことあるでしょ。」

ううううーーーん。おばあちゃんは、来世の分まで、考えている?

今年、満89歳。

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トイレ掃除

この頃、自分を振り返ることが多い。(と言うよりも、振り返させられている)

自分では気がついていなかった、自分の思い込みや、慢心など、振り返れば振り返るほど、びびります。

びびっていてもしょうがないので、今から変わればいいのだ、とは思うけど、心はちょっとしょんぼり・・状態。

今までの私が恥ずかしい・・・。

と、しばらく落ち込んでいたのだけれど、最近ベイリーの大先輩から、毎日トイレの掃除をするといいよ、と言われ、落ち込んでいてもしょうがないので、昨日は念入りにトイレ掃除。

今まで落ちないと思っていたタイルの目地の汚れなんかも、歯ブラシから、スチールたわしから、総動員して、こすりまくり、おりゃー、ときれいになった。

落ちたじゃん、汚れ。落ちないと思っていたのは、思い込み?いい訳?(きっとこれ)

その後、ぴかぴかのトイレで用を済ませて、出てきたら、「恥ずかしいと思えるだけいいじゃん。」と、復活!「菊と刀じゃないけれど、日本は恥の文化だーー!」と、みょーに、元気になってしまった。

トイレは、ひらめきを与えてくれる場所?だから、きれいにするといいのかしら?なんて、勝手に思っちゃたけれど、嫌な思いや自己嫌悪は、トイレの水に流してしまえばいいのよね。さっぱりと。

大先輩に感謝です。

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丸善さん、ごめんなさい

昨日は、郵便局に行ったついでに、丸善で、立ち読み。(我が家は、郵便局の隣なのだが、昨日は、栄住吉の郵便局)

風水の本とか、誕生日占いの本とかを、店員さんの冷たい視線を何気に感じつつ、読み漁り。(風水にもいろんな流派が、あるんだね。)

パラパラといろんな本を読んだので、何にどう書いてあったとかは、あまり記憶にないのだが、(単なる歳のせいかも?)昨日立ち読みで仕入れたことは、

掃除にしろ、運動にしろ、なんでも、気持ちいい事につながることが大事だと言うこと。

掃除したあとは気持ちよいし、いらないものを捨ててしまうのは、すっきりとして、居心地の良い空間ができる。(散らかりほうだいが好きという人は、別だろうが)

運動した後も気持ちいい。(己の筋肉の非力さにストレスたまる時もあるが、そういう場合は、免疫が下がるらしい。とほほ。)

確かに気持ちいいとか、嬉しいとかは、心にも身体にも良いものが、脳から出てくるし(エンドルフィンね)免疫も上がるはず。

前に聞いた話だけれど、食べ物も、水も(水の結晶の本でも書いてあったけれど)感謝の気持ちで、身体に入れると、農薬や塩素の影響をあまり受けないらしい。

感謝するときって、心が穏やかになっているはずだから、食べることも飲むことも気持ちよかったり、楽しかったりするから、身体も強くなっていて、免疫や身体に悪いものも排泄もよくなるのかもしれない。

風水もお掃除も食べ物も何でも、自分が心地よいと感じる、ということが、心と身体の健やかさにつながって、幸せになる、ということなんだろう。

気持ちよいことに向かって、行動するのが一番みたいだね。

今日は、玄関のお掃除をたっぷりしました。

免疫UP!

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最近

書いておりませんでした・・・。

先日のベーシックコースの受講生の方と、「考えすぎる」とか、「心配しすぎる」事について話をしていたら、丁度、ベビーマッサージの先生をお願いしているぱにあさんのブログにも同じようなことが書いてあった。

人間誰しも、感情はあるので、笑ったり、泣いたり、怒ったり、悲しんだり、することは、自然なことと思う。

心配事も、悩むことも、人として当たり前だと思う。

厄介なのは、その感情を押さえ込んだり、それにとらわれることだと思う。

感じることによって、自分の本当の心が見えてきたり、気付いたりするのだから、いわゆる悪い感情だって、何かを私たちに教えてくれる。

瞑想の時だって、心を真っ白にしろと言われても、できない。でも、次から次へと湧き上がってくる想念に捉われず、ただ、ただ、流すようにしてなさい。と、言われた。(それだって、かなり難しいけど)

私自身最近の修行の目的は、「心配しすぎない」「くよくよ悩まない」みたい。

昨日の事、明日のことを思い煩う人は、顔色が悪い。とお釈迦様も言っている。

思い煩ったとして、誰が寿命を延ばせよう。と、キリストも言っている。

何事も「過ぎる」のは、よくないんだろうね。

いい(良い)加減で、いかなくっちゃ。

と、いつもながら、自分に言い聞かせてみる。

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愚痴って言うと

聞こえはよくないけれど、時には必要かな、と思う。

人に話すことで、見えてくる自分の感情。

自分の心の中だけでは、思いがぐるぐる回るだけで、その感情の本質が見えてこないことがある。

時々自分ではあまり不満に思っていないと思っていたことでも、人に話し出すと、エキサイトしてきたりする。そして自分の本当の感情に、驚く。「ひゃー、私って、怒っているじゃん!」って。
(聞かされる方はたまったもんではないかもしれないけれどね。ごめんよ。)

自分の心なのにね。

愚痴や怒りや悲しみ、なんてものは、ないほうが、いいに決っている。

でも、それは何かを教えてくれるものなのだ。

喜びや楽しみの感情となんら変わらない。必要だから、ある、感情。

それに気がつかせてくれる愚痴を聞いてくれる友がいることに、感謝。

いつもありがとう。

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心の余裕

心に余裕がないと、いつもなら怒らないことや気にならないことでも、苦になったりするもんだ。必要以上に相手を責めたり。

最近では、誰かに腹が立ったら、自分の心に余裕がないんだと、ひとつの目安にしているぐらい。

この歳になると、心の余裕も大事だが、身体の余裕も大事。充実している時間は、楽しくても、ちゃんと、身体のことを考えてあげないと、あとで、大変。

心に余裕がないと身体にくるし、身体に余裕がないと、心にくる。

こういう仕事は、余裕がないと、できない仕事。

余裕のなさは、お客様に伝わる。(もちろん、世間の皆様にだって、迷惑がかかる。余裕のないおばさんが、世間を闊歩するとろくなことが起きないからね。)

今日久しぶりにお会いした方とも、そういう話をしていた。

何事にも、ゆとりやあそびがいるのだと。

暇と金なら、暇を取れ、というではないか。

と、いいながら、春の日差しの中、ぼーっとして過ごす、言い訳を書いているのである。

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ゼネレーション・ギャップ

最近、スクールの受講生の方の中にも、若い方がいて、ゼネレーション・ギャップを感じることが多い。

この間も、ベビーマッサージで、そけい部リンパのところは、「コマネチ」って、やるのよ。なんていっていたのだが、コマネチは何とか通じたのだ。(たけしのお陰?)

でも、コマネチがなんなのかは知らなかったのだ。

「えっ?コマネチって、体操の選手だったんですか?」

「えっ?コマネチって、女の人のことなんですか?」

「えっ?コマネチって、・・・・・」

だったのだ。

そうだよね、コマネチが、オリンピックで、10.00出したの、私が小学6年のとき(だったかな?)だもん。もうすでに、30年近くも前だもんね。

ヘッドマッサージの講習の時、腕のところの手技が、指をパラパラさせるのだが、「昔の夏木マリですね?」と聞いたら、通訳の方が、「そうです。」といって、そのところの練習になると、「次は夏木マリの手です。」と言っていたのだが、(それもすごいことだけど)ほとんどの方に通じたようで、講習参加者の年齢の高さを感じたのだ。
(わかる人は、わかるよね?)

世間では、おじさんが笑えないギャグやダジャレを言っては、「おやじギャグ」と、言われて笑われているけれど、私もおばさんギャグになっていっているのかも。

その原因は、ゼネレーション・ギャップなんだよね。きっと。

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これこそ本来の

昨日はおばあちゃんのおうちでご飯を食べ、お風呂に入ってから、おばあちゃんの足をトリートメントし、その後少し腰が痛いというので、直接腰やら肩やらをさすってあげた。

「すっかり気持ちよくなったよ~。」

とおばあちゃん。

こちらもすっかりいい気分。

これがマッサージの本来の姿なんだろうね。

お互いが気持ちいい。

それにしても、うちのおばあちゃんは、相変わらず。

この間も、引ったくりには気を付けてね。と言ったら、はいよ~。とのんきに言っていた。

「お金よりも、怪我でもしたら、大変だからね。」と言うと

「そうだね。我々は(誰の事?)また、お金は稼げるからね~。怪我したら大変。ボケるには早いからね~。」だって。

命ある限り、母の店を手伝うらしい。

数えで、今年90です。

おばあちゃん、恐るべし。

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可能性

歳をとると人は変わらないというけれど、そうでもないんじゃないかなぁ、と。

私の場合に限っていえば、30歳位からずいぶんと変わったと思う。(30は歳じゃない?)

この仕事に出会って、自分を変えなければいけない状況にたくさんと遭遇してきた。

細かいことは、省略するけれど、とにかく、自分の可能性が、無限であるということを心することに、なった。

若いから冒険できる、ということもいえるけれど、年齢を重ねることによって、経験と若い頃に比べれば、少々の知恵もついた、本当なら、冒険に出るには、歳を取ってからのほうが、よいのかも。

何かに出会うたびに、(人であれ、出来事であれ)思い込みを捨て、自分の殻を外していく。

本当は、変わるのじゃなくて、本来の自分の姿に戻っていくだけかもしれないね。

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人とかかわること

人生で出会う方とは、長くお付き合いする方もいれば、そのときだけの出会い、というのもある。

もちろん末永くお付き合いできることも大事だと思うけど、そのときだけだったとしても何かしらのご縁はあるわけで。

末永くお付き合い・・・と思っていても、袂を分かつ、ような別れ方をする方もいたりするから、結果だけを見れば、よい関係じゃなかったのかしら?と思うこともあるけれど、誰でも、その関係の中で、何かを経験する。

スクールの受講生の方でも、何度もアシスタントをしてくれる方や養成講座まで進んでくれる方、ワンデイを受けていただいて、それっきり(なんだか寂しい表現だけれど)という方もいる。

どのような人でも、人にリフレクソロジーを教えるということを私に教えてくれた人たちに変わりはない。いろいろな人に教えることによって、日々成長させてもらっているのだ。

お陰さまで、遠方から学びにやってきてくれる方も多いので、その後お会いする機会もない方もいるけれど、私が何かをその方から学ばせてもらったからには、その方にも、リフレクソロジー以外にも何かを学んでいっていただけたと思うのである。(勝手な思い込み?)

人と人が関わる時、誰もが何かを与えて、そして、何かをもらっていると思うのだ。

いい経験も悪い経験も自分ひとりでは、できないからね。

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怒りの元

時々誰かに対して怒ったりするとき、原因をその人に見てしまいがちだけれど、よくよく感じてみると、怒りの原因は自分の中にあることがほとんど。

すぐ怒るけれど、怒っている時間を短くしたくて、その原因を探るようにしているのだが、相手に見ているとピントがボケてしまう。

気がつかないうちに刺さったとげのように、自分の心の中にあるのも。

その人はそのとげをちょっと外から刺激しただけに過ぎない。

そのとげに気がつくと、あとは抜くなり、そのままにするなり、自分の好きなようにできるのだ。

そう思うと、怒りを感じていた相手にも、教えてくれてありがとう、という気持ちが、ちょっぴり出てくる。(私の場合は凡人なので、ちょっぴりなのだ。)そうすると、心もちょっぴり穏やかになる。

それにきっと自分だって知らないうちに人のとげをちくちくと刺激している事だってあるんだよね。(と予防線を張ってみる)

怒っているだけだと、そのこと自体に腹が立ってくるので、怒りからも何か学んでやろうと必死になっている自分を時々感じる。

単なる貧乏性(?)だけなのかもしれないけれど、できるだけ楽チンに生きたいだけなのだ。

天気もいいし、ぼーっとしよ。

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頑張ろう!

我が家の周りでは、建設ラッシュで、そこ、ここで、工事をしている。

静かだな、と思うと、それはお昼の合図、になるぐらい。(3時の休憩も静かだが。)

朝、お洗濯物を乾していると、どこからともなく、

「頑張ろう!」と、聞こえてきた。きっと工事現場の人の声に違いない。

その声が、なんだかとてもさわやかで、私もひとり

「頑張ろう!」と、声に出していた。

最近は、頑張りすぎてしまう人が多くて、頑張ろう、と人に声をかけるのも、躊躇する時があるけれど、いつもは適当に緩んでいて(完全に緩んでいるかも)、がんばろう、といわれたら、うん、といえるような、心でいたいな。と、思った。

朝から、少しいい気分。

天使は時に、黄色いヘルメットをかぶってやってくる。

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これでいいのか?

時々、自分が人に物を教えるのに向いていないのでは?と、思ったり、ああすればよかった、こうすればよかった、と、思うことがある。

リフレクソロジーでも、バレエでも、本当に私でいいのか?と。

今日、受講生の方に(受講生の方にこういうことを言うことすら、先生として失格?)「時々、これでいいのか?と思う。」と、話したら、「それでいいんじゃないですか?これで、よいと思うほうがおかしいですよ。」と言われて、納得。(心の中では、自分でもそうだよねって思っているけれど、人から言われると、勇気をもらうのだ。)

そうなのだ、くよくよするのはよくないけれど、省みると言うことは大事なのだ。(と、また自分に言い聞かせる)

今度、初めてインド式のヘッドマッサージを教えることになったのだが、これも、大丈夫かな?と思うのだが、ぜひ、教えて下さいと、頼まれたのだから、神様のお導きでしょう。誰にも、初めてはあるもんだ。できない仕事は、回ってこないと言うから、また、私も何かを学ぶのだろう。

そう言えば、先日何気なく見ていたWOWOWで、孫悟空の映画をやっていた。その中で、本当の師とは、弟子から学ぶことができるのだ、と言っていた。

私が師というのは、おこがましいが、教える立場の人間は、常に教え子から学ばせてもらっているのだ。

これからも、謙虚さを忘れずに、いようと思う。

いつも、皆様、ありがとうございます。

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今を生きる

「ベルリンフィルと子どもたち」を見ようと思ったときも感じたのは、「ああ、10時からだから、寝るのは、12時まわちゃう・・・」だった。

最近早く寝なくては、と、思い込んでいる。

この世界に入った頃、(どの世界?)時間は自分の中の感覚なので、(時間が経つのが早い、遅いと言うではないか)時間の長さを決めるのも、自分なんだなぁ、と思った覚えがある。

時間がないときはなんかには「私には充分な時間があります。」と、心で唱えながら、なにかをすると、不思議と時間は充分あった。

仕事なんかで夜遅くなっても、「私には眠る時間か、充分あります。」と、唱えながら寝たもんだ。そうすると不思議と朝は、すっきりと寝覚めたしね。

最近はそういうことを含めて、たくさんのことを忘れていたよう。だ。だめじゃん・・・。

見たい映画があるときは、その時間を楽しみ、時間のことは忘れる。

今を楽しまなくっちゃ、ね。

ひとりで保障のない仕事をしていると、昨日の事、明日の事で不安になってしまう。

でも、明日の不安の中にいるまま目の前の映画を見ると、映画を充分楽しめないし、心は不安のまま。

今この瞬間を楽しみ、集中すれば、自ずと明日に繋がるはずなのだ。

今を丁寧に生きること。

わかっているつもりでも、忘れてしまう。

時々神様、思い出させてね。

よろしくお願いします。

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気がついてみて初めてわかること

この間から、疲れていたとか、落ち込みモードとかいろいろ書いていたけれど、今日、なるほどなぁ、と、思った。

何かから離れているなぁ、と思っていたのは、女性性。

感覚とか、ひらめきとか、のね。

今までは、ちょっとしたことにつまずいても、前向きと言うより、そのことが起こった理由がなんとなくわかって、それほどなんとも思わなかったのだ。

そう言えば、いつもバレエで、痛めたり、調子が悪くなるのは左のだったのに、今回は、見事に、右。

確かに、経営者でもあるから、男性性も大事だが、やっぱり、バランス。

バランスが、崩れていたのだ。

自分のことをとっても、スピリチュアルな人間だとは思わないけれど、何かから離れていることは、生きていくうえで、難しいようだ。

そう言えば、最近読み返したシャーリーの本に、「自分の霊的な部分と離れてやっていくと言うことはどういうことなんだろう?」(毎度のことだけれど、細かいところは定かでない。)という部分があったが、ああ、このことだったんだ、と、感じた。

信じて委ねる。

これが今回の学びのようだ。

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過去の自分

昨日お客様と話していて、話の流れで、自分の過去を振り返ることになった。

40年を振り返ると、山あり、谷あり。それは全て今に繋がっているのだが。

人生の一大事!と、思うようなことが起こって、その渦中にいるときは、私の人生に晴れ間は、もうやって来ないと、思っても、やはり上がらない雨は、ないし、来ない夜明けはないのだ。まぁ、それも、これも、今だから言えることなんだけれどね。

行く先が不安になってきたとき、今までも、未知の毎日を手探りで何とかやってきたのだから、これからも、大丈夫と、逆に過去を振り返ることで、みょーな勇気がわいてくる。

しかし、よくもまぁ、あーんなことも、こーんなことも、してきたな、っと、今更ながら、久しぶりに自分の歩いてきて道を思うと、歳を取ると、寛容の心が大きくなると言うけれど、私の場合は、あまりの自分の過去の悪行(?)に、やぶへびにならぬよう、用心しているだけなんじゃないかと、思うのだ。

まったく、「罪のないものだけが、石を投げよ。」だなっと。

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くたびれモードから一転

昨日もちゃんと自主トレしました。

落ちた筋肉をもどすのは大変つらいことだけれど、やらなければ、戻らない。ただ、ただ、やるしかない。

やればやっただけのことはある。

座ったまま言い訳していても、始まらないのである。

人生にもいえることだなぁと。ひとり納得。

ということで、何故だか、くたびれモードから一転(日差しが暖かくなるにつれなのか?)気分が行動モード。

今までは、夕方に行っていた自主トレも、これからは暇な時間の午前にすることにした。このほうが身体がすっきりして、だらだらモードに突入するのを防いでくれる。

身体がすっきりしてくれば、心もすっきり。少しくらい仕事が暇でも、元気一杯なのだ。

身体をすっきりさせようと心に決めてから、気分も久しぶりに楽天的になり、全てはうまく行くと、思い込み、(こういう思い込みはいいね)貯金残高が、妄想の中で、たっぷりになっている。(何かが壊れたのかも?)

春が近いからかもしれないけれど、久しぶりに何か具体的な目標ができたことで、心も身体も軽いのだ。

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思い込み

月曜のレッスンは予想通りかなりやばい体型に・・・。

その私とは対照的に、ストレッチクラスの方は、「最近身体が締まってきたわ~」とのこと。

以前の体型に戻りたいと私が愚痴を言うと、「これからまた頑張ればいいじゃない。」と、言われた。にもかかわらず、「前みたいにはできないよ~。」なんて、言ってしまった。

でも、その後はたと、思いついた。

最近私って、思い込みが強い!

40になったから、物覚えが悪くなった。

40になったから、お腹に肉がついてもしかたない。

40になったから、早く寝なくては、身体がもたない。

40になったから・・・・(果てしなく続く)

数えで90になるというおばばが、ひとりで松坂屋にお買い物に出かけ、まだ、稼ぎたい!なんて言っているのに、その孫の情けなさと言ったら。

自分では年齢を気にしていると思っていなかったのに、実はかなり気にしていたのだ。

いつも思うことだけれど、「ほんとに自分のことを何もわかっちゃいない」

年齢を忘れて、無謀なことをするのはいかがなものかと思うが、年齢に縛られるのは、可能性を縮めてしまう。

自分の思い込みに気付かせてくれたストレッチクラスの方には感謝しなければ。

と、いうことで、昨日は、まじめに自主トレしました。かなりきつかったけれど、今週一杯続ければ、一回り身体も締まり、自主トレも楽になるはず。

来週のレッスンでは、へこんだお腹を見てもらおう。

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自分の好きな時間

昨日は久しぶりに、仕事しない日、と勝手に決めて、朝からだらだらと過ごす。(うちは当日予約が結構多いのです。)

それでも、昼過ぎには、少し庭に出てみようと(昨日は暖かだったから)思い、下に降りてみると(我が家は、2階にある)おばあちゃんと遭遇。

おばあちゃんは、時々我が家の庭の草取りなんかをしてくれるのだ。

暖かさも手伝って、二人でしばらく庭仕事。昔おばあちゃんが買ってくれた「デュランタレペンス」という、紫の小さな花が藤のように咲く木が、大きくなったねと言う話をしていた。
(この木は、街路樹になるほど大きくなるらしいのだが、我が家のは、台風のたびに折れて、それほど大きくはない。)

「おばあちゃんが死んだら、この木をおばあちゃんと思ってね~。」なんてことを、言うものだから、「多分おばあちゃんのほうが長生きするんじゃないの?」といってやった。
そしたら「そうかもね~。」だって。

それでもって、「雑草のように生きなきゃ。踏まれても踏まれても、負けないようにね~。」なんてことを言いながら、かまで、がしがしと、雑草を根こそぎ取っていく。

私が雑草なら、おばあちゃんとは遭遇したくないものである。

おととい、生のグリーンピースがとても安く売っていたので、久しぶりに、フランス風田舎煮込みを作った。これはとても私が好きな料理で、毎年作るのだが(生の豆じゃないとだめなのだ。)そういえば、去年は作ってなかったのだ。

昨日の夕方になって、生クリームを使ったスパゲッティが食べたくなって、その煮込みを使うことを思い立ち、お買い物へ。その前にレンタルやさんに寄って、好きなDVDを借り、少しご満悦。

白ワインと、バゲットやらなんやらを少し買い、ソースを作り、スパゲッティを茹でて、映画鑑賞。

スパゲッティが、うまい!

私は天才だ!と、自画自賛しつつ、映画を見ながら、久しぶりの時間。(ああ、至福の時)

そう言えば最近は、ひとりでゆっくり過ごす時間と言うものがなかったことに気がついた。

自分のペースで、ものを作り、食べ、飲み、見る。

眠たくなったら、そのままソファで。

だらしないと思われえるかもしれないけれど、これが自分の好きな時間なのだ。

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不思議な夢

今朝目が覚めたら、夢をよく覚えていたのだが、「何でこんな夢?」だった。

まだ、20代も最初の頃に(もう20年程前のことじゃ)ちょっぴり付き合った人の夢。

今まで夢になんか出てきたことはなかったし、それほど深い付き合いをしたというわけでもないのに、今ごろなじぇ?

夢の中で、「この人のここは嫌いだけれど、でも、やっぱり好きだな、一緒にいたいなぁ。」なぁんて、思っている。そして夢の中で、「これが本当の愛なんだわぁ」なんて、ひとりで納得している夢だった。

夢の中にも冷静な私がいて、「そうよ、そうよ」と言っている。

若い頃は、好きな人の嫌いなところは、我慢したり、見ないようにしていたりしていたんだな、と、思う。だから、その我慢が限界を超えると、「この人きらーーーい。」と、なっていたような。

相手の嫌なところをちゃんとわかって、その上で、相手を受け入れる、こと。受け入れることができること。我慢をせずに、ましてや、見て見ぬ振りをせずに。

そういうことが、理屈ではなくて、心が実感してきている年頃なのかもしれない。この歳になって今更、だから、未だにひとりかもね。でも、わかってきたような気がするだけでも、めっけもの。

夢の中に出てきた人は、自分の人生にそれほど影響を与えたと言うこともなかったと今までは思っていたけれど、今ごろになって、夢の中で、何か私にメッセージをくれたんだ。

やっぱり、人生で関わる人は、何らかの気付きを与えてくれるもんだ。

それが、20年たった後でもね。

でも、どうして彼なんだろう?

今世で私に伝えるメッセージを今ごろ思い出して、焦って夢に出てきたのかしら?

来世に持ち越さないように。

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プラスとマイナス

我が友人曰く「変な奴ばかりが、あんたの周りに集まるね。」だって。

と、言っても、ほとんどがいい人ばかりで、へんてこりん(と言うより、弱っている人かな)な人は、少ないから目立つわけで。

よく自分の波長にある人と出会う、というから、私が弱って、変になっているのかと、結構真剣に悩んだのだが、ふと思った。

もしかしたら、思っているより私自身が強くて、それに弱っている人が惹かれてくるのかしら?と。(ナンバー1のあんたが大将が出たかな?)

寒がっている人が、火を求めてくるように。(ものすごーーーく勝手な解釈だけど)

自分が変で、波動が低くて、一風変わった人が集まってくると思うよりは健全かなっと。(かといって、自分が健全で、波動が高くて、変わっていないということではないのだけれど)

確かに人は自分を写す鏡と言うから、私も変なところは一杯あるのだろうけれど。

と言って自分を変だ変だと思うのは、身体と心によくないからね。

きっと、プラスにマイナスがひきつけられるように、私の場合もそうかな?ぐらいに思うようにした。プラスには、マイナス。マイナスには、プラス。

どちらがよくて、どちらが悪いと言うものでもない。

必要のない出会いはないというから、どのような人も私が引き寄せているのだね。

結局はそうなのだ。

でも、時には自分を大きく見てあげてもいいかなっと。

どちらにしても、全ての出会いに感謝です。

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健忘症

ベイリーのおさらい会も無事に、先生から、注意されることも無く(ほっ。スクールやっている人間が、手技を指摘されたら洒落にならないもんね。)終了し、久しぶりに、同期に再会、大阪の友達ともゆっくり過ごした。(2泊もしてしまった。)

友達のところで、メールのチェックだけはさせてもらえたので、仕事のこともそれほど、気にならなくて、休暇、を頂いた、と、実感しております。

だけど、最近思うこと。

それは、物忘れがひどくなったということ。少し前なら、手帳に書き込んでいたことも、見なくてもほとんどは把握していたのに、今は見て確認しなくては、非常に不安。

大阪でもお客様にメールを送るのに、確認しつつ送る始末。寄る年波には勝てないのか、お財布落としても、手帳落とすな、の心境でございます。

でも、忘れっぽくなって、少しよかったと思うことがある。

それは、いやなことも忘れっぽくなったと言うこと。

以前は、妙に物覚えがよくて、恋人とけんかをするととても嫌な女だった。お前は、検事になれる!と、言わしめたほど。(物覚えがよいというより、執念深いだけ?かも。)

最近は恋もしてはいないけれど、いやなことがあって、しばらくは、ぎゃあぎゃあしていても、2,3日もすると、「いつの話?」という具合に、忘れてしまっている。前は、いい事も悪いことも、よく覚えていて、つらいときが多かったのだが。

今、ここに生きる、と言う点では、先のことも、前のことも、覚えているというのは重要なことでもない。
その昔、ボガードの『昨日?そんな昔のことは忘れたさ。明日?そんな先のことはわからないよ。』を聞いたときは、ぼけてるうえに、計画性の無い奴め!と、突っ込みを入れたが、それがいいのかもしれない、と今は思う。

手帳を手放せなくなったり、人の名前が出てこなくなったのは、不便なことでもあるが、怪我の功名のような物忘れに、少し楽をさせてもらっている今日この頃なのである。

何事も、よい面と、悪い面があるもんだ。

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へなちょこモード

父親が死んだ時、自宅で葬儀をしたこともあって、忙しくて悲しみに浸っている?暇もなく、それに、そのときは色々な本を読んでいて(それが正しいかどうかは別だが)父は今世から離れただけで魂のふるさとに帰って行ったのだ、と、感じていたので、泣くこともほとんどなく、お通夜を過ごしていた。

母の店のお隣の花屋さんのお姉さんが、大丈夫?という顔で、「水穂ちゃん」と、声を掛けてくれたとき、初めてヒェーと、なったのである。やっぱり悲しかったんだよね、私って、(あたりまえか)そのとき思った。

あれからほぼ7年、ちょっと、落ち込むことがあって、ある人に電話をしたら、その人の声を聞いたとたん、ヒェーとなってしまったのだ。それで気がついた、ずいぶんと落ち込んでいたんだ、私。ちょっとじゃなくて。

自分の心でも気がつかないことは多い。知らないうちに心のエネルギーが落ちていたのだ。特に大きな何かがあったわけではないけれど、いろいろなことが重なって少し弱っていたところへ、またひとつ、ってな感じで。普段なら、簡単に乗り越えられそうなことなんだけれどね。

こういう仕事をしていると、自分の心と身体が充実していないと、身体がもたない。自分のエネルギーレベルが落ちていると、お客様によい影響を与えないし、逆に影響されやすくなるからだ。だから仕事前には、瞑想したり、呼吸を整えたりして、エネルギーを整えている。それに、仕事をしている時は、現場の仕事=私の喜び、のようなところもあるので、自分では仕事に関しては、大丈夫だと思っていたのだ。

でも、他の部分では、弱っていたんだ。(同じ人間のことだからちょっとおかしな話なのだが)

それに気がついて、仕事以外の自分にも、もっと心を配ってあげなくては、と思ったのだ。
仕事をしている自分も仕事をしていない自分も同じなのだから。

面白いことに、ちょと落ち込んでいるかな、と思っている間は、お客様の予約が入らなかったこと。本当はずいぶんと落ち込んでいたわけだから、仕事なんぞしなくてよかったのだが。(お客様はよく知っているね)

ヒェーと、なった後、励まされ、電話を切る頃には「泣いたからすが、もう笑た。」状態になり、(その人にはいい迷惑だけれど、)すがすがしい朝を迎えた。

そしたら、朝一番にお客様の予約の電話が。

心と身体の余裕は大事だね。それには余裕がなくなっていることにも気がつかねば。

久しぶりのへなちょこモード。それに気がつかせてくれたのは、電話の向こうからの屈託ない声。
心のたがを緩めてくれてありがとう。

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寛容の心?

前に野球の松井選手が、高校の時からだったか、いつからだったかは忘れたけれど(毎度のことね)人の悪口を言わないと決めて、実行しているらしい。

凡人の私は、すごいな、と思ってしまったのだが、同時に、私には真似ができないな、と、思ってしまった。

私も言葉には言霊が宿るから、よい言葉ばかりを発して行こうと思ったとがあるのだが、いかんせん、凡人の私である。言葉には出さなくても、心では愚痴っていて、苦になった。

意味ないじゃん。

それからは、思うままに口に出すようにしている。(ほとんどが独り言だけれど)

きっと、(そんなことは一生ないと思うけれど)私が松井選手と友達だったら、彼の人柄のよさを尊敬すると同時に、私はダメだな、と、思うに違いない。愚痴っぽい私は、なんて、小さな人間だろうと落ち込むだろうな。

聖書を読んでも、キリストのアラを探しては、「キリストも人間だったのねぇ」なんて、ほっとしているような人間なので、当分松井選手のようにはなれそうもない。

「私って、愚痴っぽいよなぁ。」なんて、愚痴をこぼしながら、まずはそんな自分を寛容の心で、許してあげようとする、私なのだ。

寛容の心、自己消費中。

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訂正

「もう誰も信用できない?」というタイトルでした。

それと、料金をごまかしたのはひとりだけ。37台のタクシーのなかで。

「世の中捨てたもんじゃない」なんて、記述はまったくありませんでした。

ごめんなさい。

でも、よい本なので、(古いし、皆さんもよく知っているかもしれませんが)機会があれば、読んでみて下さい。

「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」
ロバート・フルガム
河出書房

こういう時って、アマゾンとかにリンクするといいのかしら?
でも、やり方がわかりません。ごめんなさい。

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世の中捨てたもんじゃない

フルガムさんの本は好きでよく読むのだが(同じ本ばかりだけど)その中に確かこういうタイトルの話があったと思う。(いつものことだけど、うろ覚えで申し訳ない。)

世の中には悪いニュースばかり、そこここで悪いことが起こっているように感じるけれど、そうでもないみたい、というような中身。

ある人がニューヨークのタクシーを使って実験したんだそうな。

初めてニューヨークを訪れる英語もあまりしゃべれない外国人を装って、タクシーに乗り、タクシーの運転手さんがどうするかの実験。

結果は、ほとんどの人が親切で、おつりをごまかしたり、遠回りをして、距離を稼ごうとした人は、ひとりか二人。中には、ニューヨークは物騒だから気を付けろとか、そこなら、歩いていった方が近いとか、言ってくれた人もいたとか。

嫌な出来事や悪い出来事は、めったに起こらないから、ニュースになるのだ。当たり前では、ニュースにならない。だから、思っているほど、世の中捨てたもんじゃない、と締めくくっている。

何故このことを思い出したかと言うと、昨日些細なことなのだが、失礼な態度の人にプリプリしてしまった。どういうわけだか、怒りが一向に治まらない。
怒りが収まらないことにもはらをたてて、余計にどん底の気分になった。

ご飯を食べながら、少しは気分が落ち着き(おい、腹が減っていただけかよ?)ワインを飲みながら、ふと思った。「いい人が一杯いる。」

失礼な人は、そうそういない。だから腹が立ったのだと。

いい人が一杯いるのだ。そして、私もその前提にたって、生きている。だから、腹が立つのだと。

たった一人の人の失礼な態度に、他の多くの人の善意や行為に対する感謝を忘れてしまっていた。そっちのほうが、大事なのにね。

私の頭のどのスイッチが入れ替わったのかわからないけれど、その後は、みょうにいい気分になって(酔っ払ったから?)すっかり怒りを忘れてしまったのである。

そして思い出したのが、フルガムさんの話だったのだ。

フルガムさん、ありがとう。

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受講生のコメント

HPをご覧になってくれている方は、お気づきかもしれませんが、先日から、受講生のコメント、を載せている。

これは、自分で自分のスクールをなんだかんだと、書くより、受講生の方の感想を載せた方がスクール選びのときに、ひとつの目安になるのでは?という御意見をいただいたので、受講生の皆さんにお願いしたのだ。(こうしたら?といわれると、すぐ、そうしてしまう私。)

もちろん、当の本人宛てに書くので、受講生の方も文句は書けないとは思うのだが(もちろん、悪いところでも構いませんよ。これからの参考にしますから。言ってもらって、なんぼ。ですから。)それにしても、その内容に感動してしまった。

忙しい時間の中書いてくださった受講生の皆さんには悪いけれど、もっと、当り障りのない感じかと思っていたら、これが皆、しっかりとした内容で、「え、こんな風に思ってくれていたの。」だったのだ。

書いてもらえるだけでも嬉しいのに。

コメントを書く時間を作ってくれて、送ってくれて、それだけでも嬉しいのに。

小さなスクールなので、大手のような立派なパンフレットもないし(お金がかかる)宣伝もほとんどできないし(お金がかかる)スクールも築23年のマンションだし(安いから)。

その小さなスクールを見つけて、選んでくれた。それだけでも、感謝なのに。

皆さんのコメントを読んでいると、私以上に、このスクールのことをわかってくれているんだなぁ、と、感動してしまった。

時々不安になることもあるけれど、目指しているスクールになってるじゃん!と、皆さんのコメントに勇気付けられた。

皆さんありがとうございます。

皆さんのお陰で、これからも、規模を大きくするのではなくて、質を向上させていくスクール、を続けていけそうです。

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職人の世界

昨日おばあちゃんの家でタラちりを食べながら(だって、寒かったのよ。)NHKの番組を見ていた。(おばあちゃんのところは、NHKオンリー)確か、プロフェッショナルなんとか・・、という番組。

私が見たのは、お菓子の職人さんの話。(名前とかは覚えていないのよ~。)

フランスで優勝されたことのある方で、今はご自分の店を構えている。

そこで、アナウンサーの方も聞いていたけれど、「どうして、地位や名声に、こだわらないのですか?」

最初の紹介の時も「支店を出さず、デパートの出店も断わって、一軒の店を開いている、云々。」と言っていたけれど、地位とか、名声は、(もしくは有名)とは、一軒の店では得られないのか?みんなそう思っているのか?不思議でならなかった。

テレビに取り上げられ、各都市には、自分お名前を付けたお店を出す、とか、そういうことだけが、地位や名声に、なるのかしら?知る人ぞ、知る、ではいけないのかしら?地位や名声イコールが、その職人さんの評価なの?

レベルは、違うけれど、自分のことを職人だと思っている私は、この番組に出ていたパティシエの方の気持ちがわかるような気がするのだ。

自分の作品は、自分にしかできない。同じレシピを使ったとしても、同じ物はできないと思う。

人から学ぶことも、あるレベルまでは、学べても、それ以上のことは、その人、の味。その人の個性。(だから、面白いのだけれど)

この方と同じ考えかどうかは、わからないけれど、私のトリートメントは、私にしかできない。うちの受講生の方が、サロンを開いたとしてもそれはその人のサロン。その人のトリートメントを受けるところ。

それに、自分の目が届く範囲には限界がある。店を広げないのも、よくわかるような気がするのだ。(だから、うちのスクールは、どこまでいっても、少人数制。)

そういえば、うちの近所の中華料理屋さんは、とてもおいしくて、こじんまりとしたそして、少し小汚い感じのお店が好きだった。

「ああ、あそこの肉団子が、食べたーーい。」と、身もだえするほど、おいしかったのだが、店を倍以上に広げたとたん、身もだえする肉団子は、消えてしまった。(私のお腹には、肉団子が形成されているけれど・・・。)それでも、よそで食べるよりはおいしいのだが。

私を(人それぞれだからね)身もだえさせる何かは、その人にしかできない、匙加減だったのだろうね。

このパティシエさんはそれがよくわかっていると思うのだ。

NHKの番組に出るぐらいだから、それこそ有名な人なんだろうけれど、ご自分の仕事の邪魔にならない程度に、職人としての心意気を聞かせてもらえる機会があるのはいいことだと思う。

私も小さいながらも、知る人ぞ、知る。スクールを続けていきたい。

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悪い事には敏感?

昨日ふと思ったのだが、悪い予感は何故当たるのか?

悪いことには、敏感だからかな?と思ったのだ。よい事というのに対しては、鈍感というか、すごくよいことじゃないと、あまりよいことは、感じないのでは?と。

どこかに、けっつまずいた、とか、渋滞に巻き込まれたとか、悪いことには、敏感に反応するが、スムーズに歩いてこれたとか、バスが時間通りに来たとかには、それほど、よいことだとは思わないのではないか。

これは当たり前に生きているということに感謝の気持ちが足らないということでもあるのだろうけれど。(はい、感謝が足りません、反省しております。)

身体についても言えることで、悪くなった時は、敏感に反応するけれど、よくなったときは、気がつかない人も多いと思う。

悪いことは、それこそ悪いことではなくて、よいことに気付くためのきっかけになるんだろうね。

大病をした人が、健康のありがたさを感じるように。

私も身障者の施設にリフレクソロジストとして働いていた時に感じたこと。

「自分の足で、好きなときに好きなところに行ける幸せ」

感謝の気持ちがあれば、全てはよいことに感じるのだろうね。

何も起こらない、といういい予感。

私たちはほとんど、いい予感、のなかで生きている。

そんな気がした。

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ご縁と、自信。

身障者の施設の仕事の話を頂いた時気軽に引き受けてしまったのだが、その後思ったのが、「果たして、私に務まるだろうか?」だった。

よくよく考えたらその施設は、重度の身障者の施設で、足の感覚がない人や、意思の疎通ができない人が、多かったのだ。

結果は、できない仕事は回ってこない。で、とてもいい勉強をさせていただいた。その前に、病院でのボランティア経験と(足が尖足になってしまった方や車椅子の方へのトリートメント経験)その施設の方の個人的な仕事の経験がとても役に立ったしね。

リフレクソロジーに限らず、これから何らかのサロンを開きたいとか、仕事をしたい人の不安は、どのようなお客様がいらっしゃるか?の、ようだ。特に個人的に仕事をしようとされている方は、いろいろな意味を含めて。

私自身の経験に照らし合わせれば、自分にあった方がいらっしゃる。そして、その技量と経験に合った方がいらっしゃった様な気がする。

最初は、どういうものかしら?という方。(特に私が始めたころは、まだ、知名度がほとんどなかったからね。)それから、何回か通ってくださる方がでてきて、症例を取ることができるようになったし。それとともに、自分の自信も出てきた。教えてもらっただけではない、お客様の変化を目の当たりにすることは、本当に勉強になるし、リフレクソロジーに対する自信も(変な表現だけれど、自分の身体がよくなっただけでは、自信もイマイチ)強くなっていった。

教えることも、段々と、という感じ。教える機会を何度か頂いて、それで、人に教える、ということを学ばせていただいた。

私の場合、自分に自信がないほうなので、(だから時々虚勢を張って生きてきてのだが)色々な方に経験を積ませていただく機会を作って頂いて、本当によかったと、思っている。

突然大きなスクールの講師に抜擢されるとか、サロンが大繁盛するのも、その人にあった経験だと思うけれど、私の場合は、ちがう。

少しづつ。

自分になかった自信というものを少しづつ固めていく。

それが私なんだなぁ、きっと。

それを支えてくださった、たくさんのご縁を頂いた方たち。

感謝しています。

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ダライラマ

今年はいろいろなキーワードがあるようで、(という、表現をするのかしら?)ありのままの私とか、素直な心とか、何度も人から言われたり、目にしたりする。

昨日の曽野綾子さんの言葉そうだけれど、昨日はダライラマの言葉。

これまた、はっきりとは覚えていないのだけれど。

「今起こっている問題を解決しようとしているなら、今の問題だけについて話すこと。過去を持ち出してはいけない。」

先日から、なんとなく、心に残っていて、最近の問題解決にこの方法でやってみようかなぁ、と、思い、実践してみたのだ。そしたら、なんと、昨日のお客様からも「ダライラマの言葉がメールで送られてきたから、見てみますか?」と言われ、見てみたら、この言葉だった。

問題解決をするのに、相手がいる場合、過去を持ち出して、ぐちゃぐちゃになってしまう事は多いと思う。特に痴話げんか?とか。(過去に覚えあります。)

口に出して、相手に言わなくても、心の中では、過去のことを攻めていることが多いと思う。

過去の思いにとらわれて、些細な出来事の解決の妨げにしているのだろうね。

経験から学ぶこともあるけれど、過去の経験が、邪魔をすることもあると思う。

あの人は、これこれの時にこうだったから、こうに違いないとか、前はこうなったから、今回もこうなるに違いないとか。

勝手に思い込むことは、自分の心を乱すだけ。

何か出来事が起こったときや人と接する時は、お洗濯した心で、向かうのがいいのかもね。

ダライラマに感謝です。

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全ては何かの為に

ひとりで生きているつもりでも、実際はいろいろな人にお世話になったり、頼ったりしながら生きている事に時々気付く。(おいおい、時々かよ~。)

困難な事にぶつかると、人に頼ったり、避けたりしながら、真正面からぶつかってこなかった自分に気付く。

若い時ならば「私できなーーーい。」なんていうのもかわいいけれど、この歳になると、そうも言ってはいられないしね。

前に書いた曽野綾子さんの「私の中の聖書」と言う本の中に、何故だか忘れられないところがある。

読んだ時は、「同じ物(聖書)を読んでも、これだけ解釈が違うのか」と、思っただけなのだが、(もちろん、曽野さんは、クリスチャンで、私と違って、教養も、才能も素晴らしい方だけど)その後、聖書の内容ではなくて、曽野さんの言葉が強く印象に残ったのだ。

有名な「叩けよ、さらば開かれん。求めよ、さらば与えられん。」の、くだり。(前後のキリストの例えは?という方も多いかも。興味のある方は、ご自分で読んでみて下さい。)

私は、こんな図々しい真似はできない、と、思ったのだが、曽野さんは違う。

「私たちの中で、こぶしを真っ赤にしながら、戸を叩き、本当に求めた事がある人がどれだけあるであろう。」(詳細は、うろ覚え。あしからず。)

この部分が、私にはこたえた。

私には、今までこれが足らなかったのだと。

最近は困難続きで、何とかかんとか毎日を送っているのだが、今までなら、道の半分も行かないくせに、「私はこれだけ頑張って歩いたから・・・」「一生懸命歩いているのに・・・」なんて、いいわけばかりを言っていた。(時に言い訳をする事も大事だけれどね。といって、また、自分を甘やかす私。そういえば、聖書も挫折中)

最近の困難続きは、このことに気付き、新たしいハードルを越えるためのものなのかなぁ、と、思うのだ。

人から見れば、低いハードルでも、本人にとっては、とてつもなく高いハードルに見えるときがある。見える現実とは、人それぞれ違うのもなのだ。そして、そのときそのときによっても、変わる。

飛び超えてしまえば、その低さに気がつくときもある。

困難な事もそのハードルを飛び越えるための声援かもしれないのだ。

本当に道を行きたいのなら、自分で飛ぶしかない、何回かは失敗してもね。でも大抵は、自分に見えているより低いから、大丈夫。(ほんまかいな?だが。きっと、そう。そうだった。そう思う・・・そんな・・・気がする・・・。)

勇気を出して、飛んでみよう。

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予感

嫌な予感とか、いい予感とかあるけれど、いい予感は、あてにならない事が多いけど、(私の場合)何故か、嫌な予感は、あたる事が多い。

ネガティブな思いには敏感なのか、嫌な予感がするという思いが、嫌な結果を引き寄せるのか、それとも、嫌な予感は、やっぱり未来の予知なのか。

まぁ、嫌な予感がするのに、いやいやと言うか、不安な感じでいるのが一番よくないのだろうけれどね。

どちらにしても嫌なもの、というのは身体と心によくない。

やっぱり直感に従うのが、いいのだろうね。

結果だけではなくて、その過程が、重要。

きっと、いい予感は、結果はたいしたことがなくても、その過程が何かしらよいのだろうね。いい予感がする時は、心も楽しいし。

ということで、今日も勝手に納得です。

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素直な心

今年のおみくじは、「素直な心で」も、キーワードだったけれど、今日映画を見ていて、この素直な心と言うことの意味が少しわかったような気がした。

人に対して何か感じた時に今までの先入観を捨てて(その人のことをどれだけ知っていたとしても)素直に感じたままを話したり、尋ねたりできることかも?って。

映画の中では、小さな女の子が、男の人に「どうして、最近は会いに来てくれないの?」と、それこそ、素直に、尋ねていた。

私たちは、大人になると、そういうときでも、責め口調だったり、はなから、そういう人だと、諦めていたり、好きな人だと、嫌われたらどうしよう、とか、色々考えてしまう。

こういうことって、恐れから来ているのだろうけれど、これからは、映画の女の子のように、素直な気持ちで、人と接しよう。と、思うのだ。恐れずに。

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今ここ

「今ここ」にいるということを普段から心がけているつもりだったのだが、最近それを忘れていた事に気がついた。

先のことばかり心配している自分がいたのだ。

どの本の話だったか忘れたけれど、確かチベットのお坊さんの話で

「お茶を飲んでいる時でも、心がそこに無ければ、気がついたときには、お茶碗の中に、お茶は残っていない。」

と言うようなことが、書いてあった。

誰しも将来の不安や、悩みはあると思う。でも、それだけに心をとらわれていれば、今を楽しむ事はできない。一服のお茶のおいしさも味わえない。

不安の中にあっても、ひと時のお茶を味わう心の余裕は、欲しいものである。そのお茶こそが、もしかしたらその不安を解消してくれるのかもしれない。

どのような状況であれ、日々の生活の中の些細な出来事にも意識を向ける、ということは、気付きに繋がる。

それには今ここにいなくては。

うちのおばあちゃんの言葉

「昨日も、明日も何でもいい、今日が一日無事に過ごせたら、私はそれでいいの。」

一瞬一瞬に生きることは、まだ無理かもしれないけれど、その日一日に意識を向けることから始めよう。

先人の言葉を生で聞ける喜び。

それとも、素直に聞ける歳になったのかしら?

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またまた、うちのおばあちゃん、恐るべし。

昨日の夕方、おばあちゃんのところに電話をしたら留守のようだった。ああ。今日は妙音さん(大須のお祭り、毎月28日に市とかが立つのだ。)だった、と思い、ひとりでご飯を食べていたら、おばあちゃんから電話。とても、寂しそうな声で、「お腹は空いたし、足が疲れたよ~。」と、訴える。どうやら、買い物に行ってから母の店を手伝い、その足で、大須まで出かけ、そこで知り合いの人に出会ってから、パチンコをしたそうな。(パチンコが好きな88歳です。)

しょうがないので、そのまま家にあったものをタッパーに、詰めて、おばあちゃんの家へ。
ご飯を食べさせると、すっかり元気になった。そして、こういうことをのたまった。

「ガンガン働きたいよ~。」(88歳なんだけど)

「どうして、働いてるじゃん。ママの店で。」と、いうと、

「お金をもっと稼ぎたいもん。」

暇さえあれば、ソファと友達になっている働き盛りのはずの孫は、「ハァ~?」

よく話を聞くと、どうやら、このまま人の世話になっていると、(税金とかの話ね。年金とか。)罰があたると言うのだ。もっと、自立したいらしい。
おばあちゃんには、おばあちゃんが、このまま元気でいれば、それだけで社会に貢献しているから大丈夫、医療費だって、他の88歳に比べれば、すごく少ないし、それだけでも、どれだけお金が節約になっていることか、それに、年金はおばあちゃんが頑張って掛けてたからなんだから、と、納得させた。

おばあちゃんの世代の人たちは、みんなこういう考えなのだろうか?それとも、うちのおばあちゃんが、特別なのか?

それにしても、人はやっぱり働くと言うことが、必要なんだろうね。人に必要とされるということ、そしてその能力の評価としての対価。
まあ、世間には、そういう人ばかりではないかもしれないけれど。

歳をとったら、遊んでのんびり暮らすのがよい、なんて、思い込みかも?もちろんお金の心配をしなくてよいというのは、必要かもしれないが。
身体が思うように動くうちは、なんらかの仕事をする。させる。大事なのかも。
そう言えばおばあちゃんは、80の時に、姉の子供(赤ちゃんの時ね)を、お昼だけ預かっていたなぁ、それもすごい事だ。今更ながら。

そう言えば、前にテレビで見た車椅子のおばあさん(何処かの外国の人だった)が、誇らしげに言っていた「これでも、私ボランティアをしているのよ。お年寄りのところに朝、電話をして、元気でいるか確認するのよ。」

仕事は、9to5だけではない。
できることを、できるだけやる仕事というのもこれからは、必要なんだね。

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過去の独り言

最近仕事に関して、停滞気味である。

思いついて、過去の独り言を読み返してみた。(今までの人生で、三日以上日記を書いた事がないのに、ここまで続けてこられたのもHPのお陰である。)

同じような事を繰り返し繰り返し書いているようだ。まあそれも、リフレクソロジーや、仕事に関して同じ姿勢を保っていると言う事かもしれないのだけれども、こうも同じような事を書いてばかりいると、自分に言い聞かせているのだなぁ、と、つくづく思う。

自分の心の弱さが出ているのかも?

リフレクソロジストとして、スクールの講師として、バレエの先生として、はたまた、門野水穂という人間として、これでいいのか?という答えは出ない。
もちろんそれなりの自信がなければ、お客様に対しても、受講生の方に対しても、社会の方に対しても、失礼であるのだが、時々、ずーん、としてしまうのだろうな、きっと。(人からはそう見えないらしいが、でもそれもありがたいことである。)

自分で書いたのもを読んで、変な納得をするのもなんだが。

でも、面白い事に、書いた事が少しづつ実現している事にも気がついた。

書いたまま忘れていた事がたくさんあるのだが、「おおっ」ということもある。

この世界に入る前あたりから、夢日記や思う事をノートとかに走り書きをしたりしていた事がある。部屋の掃除をしている時などに出てきたりすると読み返すのだが、少しこっぱずかしことが書いてあったりして、われながら笑ってしまうこともあるのだが、今と同じような事が書いてあったりして、相変わらず成長してないなぁ、と思うのだが、変わらない気持ちと言うものも大事なのかも。

何か一つの思いを貫く。

そんなにかっこいいものではないかもしれないけれど、その思いを実現する方法や状況は変わっても、そこにあるお思いは変わらないなぁ、と。

それもひとつの強さかもしれないと思って、すこしほっとしたような。

前ばかり見ていると、まだまだそこには高い山に登る坂があって、いつまでも自分は、まだまだなんだと、感じてしまうけれど、時々振り返ると、自分で思っているよりはたくさんの坂を登ってきている事に気がつくこともある。

それもまた必要なんだね。

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うちのおばあちゃん恐るべし

IMGA0274 IMGA0271 今日は、名古屋は積雪がすごい(もう書いたか・・)

おばあちゃんに電話して、「今日は雪で道がすべるから、お店に出てきちゃダメだよ。」と、電話をしてから、姉の代わりに私が母の店に。

そうすると、お昼頃におばあちゃんが、歩いてやってくるではないか。

「転んだらどうするの!」と言う私の言葉は、どこふく風とばかりに

「雪は友達よ~。」なんて、のんきに言っている。(確かに、20年おばあちゃんは新潟にいたけれど)

それにどういうわけか、上機嫌。いつもの倍、笑う。

やっぱりおばあちゃんも雪が好きなのね。

先日のただ寒い日は、機嫌がほんとに悪かった。

積雪の為に、お仕事が大変な方もいるというのに、おばあちゃんとその孫は、いい気なもんである。

家の前に、三段重ねの雪だるまを作っておいたから、きっと、おばあちゃんはそれを見て、また、ひとり笑うのだろうな、と思って、私も楽しいのである。

*家の前の雪だるまの写真は、電池がなくなったので、取れませんでした。

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雪が降る

雪がしんしんと降っている。

こんな日は、ストーブの暖かさの中で、ゆっくりが一番。

本当にゆっくりしている。

スクールを始めてからというものの、仕事が暇だと、「明日はどうなる?」と、心配ばかりしていたが、最近では、よい事か悪い事かわからないけれど、今日食べる分があって、寒さをしのぐ部屋があるなら、大丈夫、と、思えるようになった。

人生の質は、仕事に忙しさに比例するのもではない。どちらかと言うと、反比例かな。

聖書の中にも(しつこいようだけれど。私はクリスチャンではない。)農作物が豊作で、これを保管しておく蔵を作ろうとした人を神様が見ていて、それなら明日その人の命を奪ってしまおうと思う話もある。(詳細は忘れたけれど)

お金をためて自分の夢を実現するのはよいけれど、お金がたまらないからと、嘆くのはまた違う話。

仕事が暇でも、自分の人生を楽しみ、過ごせば、よいのだろう。と、心から実感と経験を伴って、納得する日々なのだ。

それが、また仕事に繋がるのだろうね。

だから、明日は、雪だるま作れるかな?そればかり考えて今日は一日過ごしたのである。

*そう言えば、来年1月1日2日と、金山グランコート・ホテルで、仕事します。(5F ローズルーム11:00~17:00)
リラクゼーションコーナーで、リフレクソロジー担当します。15分1500円、30分3000円です。手軽にお試しになれる金額ですので、よかったら来てくださいね。宿泊してなくても、大丈夫です。その他いろいろなイベントをしていますよ。占いコーナーとか、ネイルとか、キッズコーナーもあるので、家族連れでどうぞ!

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死者からのメッセージ

今日姉の家で、本棚を物色していたら(姉も姉もだんなさんも読書家ではないので、めったにしないのだが、今回は貸しているはずの本を探しに)目にとまった本があった。

曽野綾子さんの「私の中の聖書」である。

あら?なんで?と思ったのだが、手にとって、読んでいるうちに姉が、帰ってきた。

「その本、○○さんにもらった本だよ。」

その人は、先日のブログにも書いたけれど、この間亡くなった方。

「何かあるのかもね。」と、姉。もう、20年程前にもらった本だそうだ。

姉の影響で、(と言っても、3歳しか離れていないが)若い頃から、年上のそれもとても素敵な方達と知り合いになった。

その人もそのうちのひとりなのだが、以前は、子供が背伸びして、大人の世界を見させてもらっている、と、いう気がして、憧れの人たちだった。

この歳になって、ようやく肩を並べられるかしら?などと、思っていたら大間違いだった。

最近聖書を読んでいるせいか(今はちょっと挫折中)この本が気になって、手にとって見たのだが、(きっと以前からそこにあったはずなのに私の目には写っていなかった)このところ、思い悩んでいたこと(大げさだけど)の答えがその本には、書いてあった。

亡くなった方とは、ゆっくり話したことも(私が未熟すぎたから)なかったけれど、ようやく、水穂ちゃんもわかる時が来たなぁ、と、やっと自分の世界に入れてくれたようで、嬉しかった。

亡くなってしまった人だけれど、そのあとになって、やっと初めてゆっくりと語り合ったような気がする本だった。(今の私には、とても必要な本)

全ては、とてもいいタイミングでやってくる。

それは相手が死んだとしても、そのことが起こってから何年経っていても、必要な時に、必要な答えを持って現れるのだろう。

自分が何かわかるようになったということと、まだまだこれからだね、ということを教えてくれた本なのだ。

やっと、背中が見えたと思ったら、逝ってしまった人。

でも、それでも何かメッセージを残してくれたんだ。

それが嬉しくて、一気に読んでしまった。

でも、きっと、もっと深く読みなさいって、怒られそう。

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この歳になってきたからか、必然なのか、ここ何年かの間に、親しい人のお葬式に出ることが多くなった。

黒いコートを買ったときにも冗談で「お葬式も寒い時が多いから、これ、いいよね。」なんて言っていたら、そのコートは、ほとんどがお葬式の時に着る事になった。

自分が直接その人を知っている場合は、もちろん悲しいが、きっと今は、健やかで、穏やかなところにいるのだから、大丈夫と、思って、悲しいけれど、さよならを言うために、お通夜やお葬式に出ることができたのだが、今回は、残された奥様のほうが親しくて、とても辛くなた。
いつも思うことなのだが、お葬式って、残されたものの為にあるんだなぁって。

確か(間違っていたならごめんなさい)三国連太郎さんが(漢字もイマイチ自信がない)お葬式には出ないことにしている。なぜかというと、そのほうが、友達が生きている感じがするから。だ、そうだ。

私も友達のひとりが、死んだことを知らなかったことがある。年賀状をもらったから元気でいると思っていたのだが、それから半月ほどで、ご主人からはがきを頂いた。

まだ、30半ばだったその友達の死を受け入れられずにそのままにしておいた。

今でも、生きている感じがする。

いとこが17の時に突然死、した。
家に帰ってから、夕ご飯を食べるまでの間に死んでしまった。

叔父から「どうして?」と、聞かれたが、「何か必要だったからだ思う。」と言ったら、「どうしてそう思えるの?」と、聞かれ、「きっと、今日お葬式に来ていたお友達は自分から命を絶たないと思う。人の死の悲しみを知ったと思うから。」と、答えた。

これが正しい答えだとは思わない。それにその時の私にはそれが精一杯の答えだった。

人はそれぞれだから。

でも、人の死にも必ず絶妙のタイミングがあって、残された私たちに何かを教えてくれていると思う。

私の父も教えてくれた。

それがなんなのだかはその人次第。

人が死ぬこと。それは、必然。その人にとっては、安らぎだと思う。安らかな世界へ。
父が死んだ時も、廊下あたりに浮かんでいるの?なんて思いながら、涙をこらえた記憶がある。

でも、凡人にとっては、そこに偉大な意思があるとしても、その人ともう会えない、と思う気持ちの方が強いのだ。

だから、悲しい。

つくづくお葬式は残された者が、現実の世界の中で、心の踏ん切りをつけるものだな、と、思うのである。

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寒い寒いと思ったら、雪。

今、車の走る音に、もしかしたら?と、カーテンを開けたら、雪が降っていた。

あいにく積もっているわけではないけれど。(私の楽しみの雪だるまは作れそうにないので)それでも、空から白いものがはらはらと舞ってくる光景は、心を和ませる。(これが雨なら、いやだなぁ、となるのだから、雨には気の毒としか言いようがない。もとはおなじものなのに。)

幸せなこととは、こんな雪の降る日は、ストーブの上で、しゅんしゅんと音を立てるやかんの音を聞きながら、窓越しに雪を眺めること。(家を建てたら、雪見障子を作りたい。)

先日のお葬式から、なんとなく気分が沈んでいたので、この雪は、そんな私への神様からの贈り物かもしれない。

そういえば、気分が落ち込んでいる時や心に不安が一杯の時などは、必ずと言っていいほど、神様はそれとない贈り物をくれる。

スクールを本格的に始めようとしていた春には、枯れたような木から、新芽が出ているのを見て、勇気が出てきたし、朝早く目が覚めた時に、何気なく開けた窓からは、キラキラと輝く、明けのヴィーナスが見えた。

どうしようもなく落ち込んで、何をしても涙がこぼれてくる時があったけれど、涙がこぼれないように顔をあげた時、空の青さに慰められた。

自分さえ気がつけば、そこここに、贈り物って、あるんだなと思う。

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思い

出会いとか、チャンス、などなどは、不思議なもので、何か大きなものが動いているとしか思えないことが、多い。

現実は、自分で引き寄せているから、強く望めばよいという人もいるけれど、私の場合は、強く望むとそれにばかりエネルギーを使うようでうまく行かない。くたびれてしまうのだ。

どちらかというと、漠然と考えていた、以前思ったけれど、最近は目先のことに捉われていて忘れていた、というようなことが、現実になることが多い。

畑でもやりながら、誰かの役に立てるような仕事がしたいと思って、どこか田舎にでも引っ越して、農園をやりながら民宿でもやりたいな、と思っていたが、結局は、リフレクソロジストをやっている。でも、いつだったか、友達に言われた。「リフレクソロジーをしながら、一坪畑で、野菜を作っているじゃない?同じことじゃないの。」って。

リフレクソロジーを正しく広めるには(私には使徒パウロはいないからね)スクールを作るのがいいんだろうなぁと、思っていたら、教えて欲しいという方やそういった機会に恵まれて、知らないうちに人に教える自信がついて、スクールを開くことができたしね。

スクールを開いた時は、スクールが何とかうまく行くように、とそればかり考えていたら、スクールよりも、以前自分が思っていた、ほかのプロのセラピストさんが集まって仕事ができる環境を作りたい(もちろんお客様のためなのだが)ということのほうが、実現しつつあるのだ。(過去のブログ参照)

もちろん、我が小さなスクールも何の後ろ盾もなく、人知れず(ではだめなのだが)ひっそりとしているものの、なんとか2年経った。(もった?)

もう最初は、海図も持たず、手漕ぎボートで、太平洋に出航したようなもの。
誰かと出会うたびに、コンパスを頂いたり、海図を頂いたり、食料を分けてくださったり、水も頂いたりで、なんとか、今外海にまでやっと来た感じがする。(私のリフレクソロジーとの歩みもこんなものだったけれど。いつも手探りで)

何事も執着するとうまく行かないようだ。(私の場合ね。)

ブルーは執着の人だしね。

思いも信じて手放すのが一番いいようで。それに忘れている位が一番いいのだろうね。だって、行動は、それに向かっていっているのだから間違いなく。

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不思議なこと

昨日はおばあちゃんのところで、晩御飯を食べたのだが、その時電話がかかってきた。
電話に出たおばあちゃんは、「水穂ですか?」なんて言っている。
私の知り合いでおばあちゃんの電話番号を知っている人は誰もいないのに。

電話に出てみると、なんと、父方の伯母さんからだった。
どうやら、母のところと間違えてかけてきたようなのだ。
それにしても、どうしておばあちゃんのところの電話番号を知っているのか(おばあちゃんは母の母だから。)不思議だった。

どういうわけだか、父の法事の日には必ず仕事が入る。
それを理由に3回忌も7回忌も出ていない。電話をかけてきた伯母さんとは、墓参りか法事位しか会うこともないので、父の葬儀の時以来会っていない。
伯父さんは(伯父さんが、父のお兄さん)高齢になっているので、身体もずいぶんと弱っているらしいのだ。

父の若かりし頃の波乱万丈の人生のお陰で、父方の親戚とはあまり交流がなかったので、伯母さんや伯父さんともゆっくり話したことはあまりない。
だから、あまり親戚という感じがしない。どちらかと言うと他人行儀になってしまう。

昨日の電話では、私も少しは自分というものがしっかりしてきたのか、自然に(ビール飲んでいたからかも?)話ができて、今度伯父さんの足をトリートメントしに四日市まで出かけていくことを約束した。(何故だか伯母さんはとても嬉しそうだった)

電話を切ってからも、おばあちゃんと「不思議だね~」と、話をしていたのだが、きっと、天国の父が(天国にいるとしたらだけど)なんか技を使って、伯母さんに電話を間違えさせたに違いない。(そもそも、電話番号を知っていることのほうが不思議なのだが)
父からの何かのメッセージなのだろう。あちらの世界の人には不可能はないらしいからね。

できれば年内に行ってこようと思う。

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色々な出来事

普通に生きていても毎日の生活の中でいろいろなことが起きる。
不愉快なことから、楽しいこと、悲しいこと(これは最近少ないなぁ)などなど。
それには大抵相手があるのだが、楽しいことはよいとして、悲しいことや不愉快なことは、どうしても相手を責めてしまう。
後で考えると、自分の過去にも結構いろいろなことをいろいろに人たちにしてきたことを思い出す。

若い時のことなんか、消しゴムがいくらあっても足りないぐらい。(どんな人生じゃ)

人のことを言えた義理ではないのだ。

脛には一杯キズもある。(だからどんな人生だったんだよぉ)

キリストも言っている「あなたが計る升であなたも相手に計られるのだ。」と。

「何故、笑う?(責める、怒る)名前を変えたら、お前のことだ。」

なんだな、きっと。
反省。
相手を許すことって、自分を許すことなんだね。今更だけど。

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電話

先日久しぶりの方から電話を頂いたのだが、この電話が、とても奇妙だった。

酔っ払っているのか(夜も遅かったし)話の内容が、4年前のことなのだ。

いくらこの歳になったとはいえ、4年もあれば誰でも何かしら状況が変わっていると思うのだが、この方は、そんなことお構いなしに、勝手に話を続けた。近状を尋ねることもなく、まるで、その時のまま時間が止まっているかのように。こちらにしてみれば、???だった。

何とか電話を切ってから、しばし考えた。

「なんだったのか・・・?」

何か物事や人に対する特別の思いは、誰でもあると思う。
怒りやら、憎しみやら、恋心やら、いろいろ。
思いに執着していると、時間がなくなる。相手がある思いであっても、その思いだけにこだわったり、その思いを抱えていると、相手の知らぬところで、思いだけが一人歩きするようになるようだ。物事は、常に変わっていくということも忘れて。

以前に読んだ本に、「怒りや憎しみは、自分を傷つけ、蝕むだけ。相手はその思いと関係ないところで生きているから。あなたの怒りや憎しみは相手には、何も影響を与えない。」ということが書いてあった。その時も納得したが、今回もっと納得したのだ。

怒りを行動で相手にぶつけたり、恋心も、相手に押し付けると、別の問題だけれど。

この1本の電話が私に何を教えてくれてたのかは、定かではないけれど、自分の中にも、似たようなことが、あるのかもしれない、なっと、感じた夜だったのだ。

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何故なのかが大事

先日の講習で、受講生の方が、言っていたことが印象に残った。

子供を育てるのに、子供が(特に娘さん)何か変わったことをしたら、(どちらかと言うと悪いこと)それを責めるのではなくて、「どうしてそうしたか?」を話し合わなければ、と。

とても、共感できたし、私の若かりし頃、両親に、そう思ったことがある。(不良娘だったからね。はは)

身体についてもそうだと思う。
身体は何か理由があって、その状態なのだ。

鼻水が出る。(炎症の手助け)せきやたん。(何か悪いものを外に出したい)熱。(身体に入ったウィルスなどと戦っている)

なのに、私たちはこれらの症状の原因を探ることなく、悪いことと思って、薬を飲む。
身体は本来の働きをしているだけなのに。身体は、必死なのに。それもよい方向に向かうために。

痛みに対して、ただ単に薬を飲んで、痛みを抑えるって、やったことに対して、ただ、怒るだけの親(もしくは大人)のようなものかしらと、思った。

身体も子供も(もちろん大人もだけれど)何かを訴えたくて、その状態なのだ。

身体や心の声を聞くって、大事だよね。

だって、理由があるんだもん。

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軽くなる

先日の養成講座のコースのお昼ご飯の時、平田先生と受講生の方一人と私の3人で、話をしていて面白い話をした。

「歳をとるって、結構楽しみ。」と、私。

「ああ、なんだかわかります。」と、受講生の方。

「歳を取るとお余分なものを捨てていく感じがするね。」と、私。

「そう、そう。軽くなりますよね。」と、受講生の方。(ちなみに、その受講生の方も40をすぎている。平田先生もすぎている。)

その後、若い時があってこそ、今のこの軽さがあるんだという話になったのだが。

自分で山に登ってこそ、いろいろなことがわかってくるのだなと思う。

確かに若い頃、(今でも充分若いといえば、若いけど)年齢を重ねた方から、色々な助言を頂いても、「そんなことを言われても・・・」ということが多かった。

「ペギー・スーの結婚」じゃないけれど、今の感覚で、あのころを過ごしていたら、ああだったかも、とか、こうだったかも、とか思うし、そういった助言にも素直に耳を傾けられたと思う。

初めての山登りをするものにとっては、不安が一杯なのだ。きっと、ああなったらこれも、こうなったらこれも、とかなんとか持っているうちに、リュックは、パンパンになっていくのだろうね。

何度か山を登るうちに、あれはいらない、これはいらない、と、余分なものを捨てていく・・・一番大事なのもがわかってくる。山に登るには、軽いに越したことはない。

ふーっ、何とか危なっかしくも、それなりに素敵に(?)歳をとっているつもりなのだが・・・。

まだまだ、リュックには、余分なの物が一杯かしら。

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心配をするということ

最近どんなことでも心配をしない、ということにしている。

老後の心配、お金の心配、などなど。

「思いわずらったからといって、自分の寿命を延ばせるだろうか?」って、イエスも言っている。

「彼らは、(中略)ただ現在のことだけで暮らしている。だから顔色が明朗なのである。おろかな人は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために萎れている。」と、お釈迦様も言っている。

「心に疑わないで信じるならば、その通りになるであろう。」とも、イエスは言っている。
(その前のイチジクのエピソードは、イマイチだけど。)

やっぱり心配しない方がいいみたいね。

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ブルーとグリーン

私のオーラソーマのソウルボトルは、「ブルー/グリーン」偶然にも(必然的に?)ハート・チャクラのボトル。(アナハタ・チャクラね)

昨日WOWOWで、「ハッピーフライト」という映画をやっていたのだが、(ハリウッド版スティワーデス物語)その制服の色がブルーとグリーン。

それだけで、嬉しくなってしまう。この色の組み合わせは、心がワクワクするのだ。

この3番のボトルを見ると、好きな人といる時のような心楽しい気分になる。

映画の中でこの色の組み合わせを見ただけで、ワクワクするなんて、よっぽど好きなんだなぁ、と、みょーに納得した夜なのだ。

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イギリスの魔女

リンク: Herbal Medicine(Phytotherapy)~植物療法.

これが我がスクールの病理、解剖生理担当の平田のブログ。

今日、久しぶりに養成講座で、会ったのだが、面白いことに、彼女とは、長い付き合いではないのだが、(短いが濃い?)それに彼女は初めて気がついたらしい。

平田エネルギーのお陰か、今日帰ってテレビを見ると、見るもの全て、ハーブのことだったりしたのだ。

ハーブティーは、飲みすぎてはいけないというお医者様の話とか、(薬効成分があるから。だって、薬草だもん。平田もいつも言っている)
イギリスの魔女の話。(薬草を煎じていたのは魔女だからね。)

お医者様の話で、なるほどと思った一言。

「毒にも薬にもならない。」と、昔から言うでしょ?だから、薬はすぎれば毒なんです。って。

平田もいつも言っている。

ブログ覗いてみて下さいね。魔女だけど、まじめな人だから。(?)

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えっと、誤解のないように

前の続き

キリストはとてもよいことを言ってます。素晴らしい言葉もたくさんあります。

誤解のないようにね。

???は少しだけですから・・・。

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まだまだ終わらぬ聖書

まだ聖書を読み終えていない。だって、長くて、そして、預言書になると意味を考えながら読むのにとても時間がかかるんだもん。

歴史的な記述の部分は読み終えたけれどね。

読み進むにつれ、一体どうやってこの意味を解釈すればよいのかと思うところばかりなのだ。

旧約はほとんど神様に一貫性がない。

キリストのことが書いてある福音書でも「あれれ?」というところが結構あって、???

私はキリスト教徒でもなんでもないので(子供の頃の日曜学校通いも数えるほど)いわゆるユダヤ教の神様やキリストには特別なお思い入れはないけれど、それでも世界三大宗教のひとつなのでさぞかし立派なことばかり書いてあると思っていたのだ。

だから、神様やキリストが???ということを言ったり、したりすると、これは私にはわからない深遠な意味があるのだ、きっと、と、頑張ってみたのだ。

だけれど、やっぱり、「なんだかなぁ~」というところは、なんだかな~なのだ。

細かいところは書き出すときりがないので、ここには書かないけれど(興味のある方は読んでね。せめて、福音書ぐらいは)聖書ですら、キリストを完璧な人間としてしては書いてないのだ。

たぶん、素直に先入観なしに読んでみると絶対???なところがあると思うし、みょーに、キリストが人間ぽいのだ。(あたりまえ・・・だけど)

読めば読むほど、キリストが身近に思えてくる。(ほら、おなかを空かせたときのイチジクの話とかね。)

なんだか、私の「あの人は偉い人だ。」とか思うと、その人は完璧なんだと思い込んでしまう癖を改めて思いださせてもらった気がする。人を理想化してしまう悪い癖。そしてそれから外れると、がっかりしてしまう癖。

聖書を読むことによって、この世で(?)トップ3に入るほど、完璧だと思われていた人がこれほど、いろいろな面をもっているということがわかったのだ。(あくまでも、私の感じたことだけれど)

いいところも悪いところも、何だかなぁ、というところも、すごい、というところもあるのが当たり前。だってキリストだってそうなんだもの。(そして、聖書がそのまま残されていることも。ある意味そうだからキリスト教徒は博愛主義かもね。)

私だって、これでよいのだ。

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意地悪

ずいぶんと前にも書いたが、この世界に入るきっかけが
「悪いあなたの時ほど、周りからは必要とされているときがある。」
と、書いてあった本。

だれでも、わざわざ人に意地悪をしたり、責めたりする人はいないと思う。
自己嫌悪に陥る時「どうしてあんなことを言ってしまったのかしら?」とか、「どうしてあんなことをしてしまったのかしら?」と、あとで思うと思う。

誰だって好きでそんなことやあんなことをするわけでもないのに、してしまったのだ。きっと、神様が今はそれが必要だと思って、そうしたのだろう。と、思う。

人生を振り返ってみれば、よいことの結果がよいことだけに影響されたわけではないことに気が付く。

あの時のあの人の一言(もっちろん、意地悪な)が、あの時のあの人の行動が(もっちろん意地悪な)私を正しい道にもどしてくれたとか(大げさかしら?)何かに気付くきっかけになったとかがあると思うのだ。

だから、もし私が誰かに思わず、意地悪なことをしてもそれはその人にとっても私にとっても必要なことだったんだと思うようにしている。

愛の究極は、「許すこと」だと思うけど、それにはまず、自分を許してあげないとね。

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自慢じゃないけれど

幸せだなと思う、自分のこと。

好きな仕事を見つけることができた。とにかく今はそれでご飯を食べている。

まだまだ自転車操業で、明日をも知れぬ日々だけど。

この仕事を始めてから不思議なことに、旅行に行きたいとか、洋服が欲しいとか、あまり思わなくなった。(行きたくないわけじゃないよ。洋服も要らないわけじゃない。)

身障者の施設に行っていた時は、お陰さまで、リフレクソロジストという特殊な立場だったので、それほどでもなかったのだが、やっぱり色々と人間関係もあって、(それに身障者のトリートメントは、肉体的にきつかったのだ。ベッドに横になれる人が、ほとんどいなかったから)やたら買い物をしていた気がする。(たいしたものは買ってないです。スーパーでちょこちょこっと、ね。)
買い物はストレスの発散というけれど、そうなんだなと、思った記憶もある。

自分の欲求が満たされていれば、対象をほかに向けなくてもよいということかしら。
私の場合だと、自分の仕事がうまくいくことが最大の欲求で、ほかは、2番目。

今はお金に余裕がないといってしまえばそれまでだけれど、でも、欲しいのにお金がない、行きたいのに、お金がない、と思うよりはとても、楽なのだ。

今は自分の足もとを固める時なのだろう。それが一番心と身体によいのだ。

経済的に支えてくれるだんなもいないけど、(経済的に支えなくてはいけない相手もいないしね)心の支えなら、一杯いるから。

心と身体の余裕を持って、さらにお金に余裕を持った私が、旅をし、おしゃれをすることを夢見る日々なのだ。

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与えることと受け取ること

前のブログであんなことを書いたからか、朝のらりくらりと過ごしていたら、お昼に母から電話があった、「暇なら、大須まで出てこない?お昼一緒に食べよう。」

身体は、だらだらなので、気が重かったのだが、久しぶりのお誘いなので、出かけることにした。待ち合わせは、母が若い頃から洋服を買っているブティック。もちろん私も買っているところなのだが、久しぶり。(だってね。最近はお金に余裕ができるとスクールの備品とか買ってしまうのだ。だからもっぱら、ユニクロ・・・。)

店に入っていくと、「何でも好きなの買いなさい。」と、母。
四十にして、母から買ってもらうのもねぇ、と、少し遠慮。
最初はぐだぐだ言っていたのだが、何点か選んで、買ってもらった。

うちの母親は、子供を育てていないからか、だから育てなかったのかわからないけれど、愛情の表現が下手だ。昔から(父もそうだったけれど)何か物を買ってあげることぐらいしかうまく表現ができない。
昨日だって、私がスクールの運営に頑張っているのを見て、嫁入り前の娘(母親位しか言ってくれないけれどね、この歳になると)が、少しはおしゃれでもして、気分を変えたら?ということだと思うのだ。
母にしても、それぐらいしか私の力になってあげられないと思っているのだろう。
母になんらコネがあるわけでもないし。

母は人からの好意とか愛を受け取るのが下手。人一倍求めているけれど、与えてもらっても受け取ることが下手なのだ。時には受け取っていることさえ気が付かないこともある、人一倍もらっているのに。

それに私も似たのか、受け取ることが私も苦手だって。誰かの好意を受け取ることが怖かった。依存してしまうようで怖かったのだ。(最近はそうでもないけどね。)

どちらかと言うと、与えることより、受け取ることのほうが苦手な人が多いと思うのだけどね。与える喜びは、素直にできても、受け取ることは素直にできない。
与える喜びも受け取ってくれる人の喜びがあってこそだと思う。
受け取る喜びも与えてくれる人の喜びがあってこそだと思うしね。

だから、与えることが上手な人は、受け取ることも上手かもしれない。その反対ももちろんあると思う。と、洋服を選びながら、色々と思ったのだ。今日は私の受け取るということの学びの日?かしら?と。

なぁんて、言いながら、ながながと、四十にして、母親から、洋服を買ってもらった言い訳を言っているだけなんだけどね。実は。

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自分のことだけど

自分のことは自分が一番知っていると言うけれど、確かに、心の中で思ったことも、自分には隠せない。でも、ほんとにそうかしら?知っているつもりだったりするだけかも。

時々人から、「水穂さんはこれこれの人ですね。」とかなんとか言われると、「ええ?そうかしら?」ということが多い。自分の思っている自分と人が思う私とには、ギャップがあることが多いのだ。

自分の欠点は?と、聞かれると、たくさん言える。でも、よいところは?と、聞かれると、うううと唸ってしまう。

昨日バレエの自主トレをしていて(これも仕事のうちですが・・・)もうレッスンを受けなくなってから2年が経つんだなぁ、と、思った。かなり、背中とおなかには肉がついたし、飛びものも、高さがなくなった。体のことも、パのことも、欠点ばかりが、目に付く。

でも、ふと思ったのだ。自主トレだけで、一応最低のところはキープしているじゃん。これって、実はすごいことかも?って。仕事のうちとはいえ、自主トレを続けていることもすごいかも?って。

ちょっぴり、見方を変えれば、自分もすごい!と思えることをしているかもしれない。
まぁ、リフレクソロジーもお陰さまで、今年で7年目になるし(続いてるじゃん!)スクールも内情はともかく、2年経った。続いている・・・これも、すごいことだ。(きっと)
(だって、スクールのそばのカフェは、すーーーーごくお金をかけた内装だったのに、3ヶ月でなくなったもんね。それに比べれば、ね?)

今までは、人から「すごいですね。スクールもやっているのですね。」なんて、言われると、
じぇんじぇん、すごくないんです。大変なのです経営が。なんて心の中で思っていたけれど、私だって、人がスクールをやっていて、続いていると知ったら、「すごいな。いいな。」と、思うに違いない。

確かにそれに伴う苦労は、誰にもわからないけれど、誰でも、人にはわからぬ努力や苦労はされているのだ。

人から見える自分もやっぱり自分の一部だと思うし、自分の思う自分もほんとだと思う。
人には色々な面があるのだ。気が付いているところと、気が付いてないところ。

誰でも、自分の評価は低めになってしまうと思うけれど、時々は、自分の友達になったつもりで、見方を変えてみることは、とってもよいことだと思うのだ。

これからは、自分のよいところやすごい!と思えることにも、心を広くして、自分自身が素直に受け入れていこうと思うのだ。

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聖書

あれから、少しずつ聖書を読んでいるのだけれど、な、長い。
今は、旧約を読んでいる。もう、挫折しそうである。

でも、読んでいると、敬虔なユダヤ教徒やキリスト教徒の方には、悪いけれど、そこここに、突っ込みを入れたくなるところがある。

想像していた内容とかなり違っているので、「これでいいのか?」と、思ってしまうほど。

先週も、母からもらった丸善のお買い物券で、何か本を買おうと思い、丸善をぶらついていると、「聖書」の本棚のところに足が向いた。

目に入ったのが「誰も教えてくれない聖書の読み方」だった。

手にとってパラパラめくると、まじめな聖書解説本ではなかった。

でも、私と同じ感想が書いてあって、「読みたい。」と、思ってしまったのだ。
値段は、1800円、母からもらったお買い物券は、2000円。いい感じ。と、思って、つい買ってしまった。

その後、お天気がいいので、近くの白川公園にて、読書。
この本がまた面白い。人の目があるのも忘れて、声を出して笑ってしまったのだ。
しかし、この本の面白さは、聖書を最初からまじめに読んでないとわからない。
日曜学校で習ったとかではなくてね。

大いに共感し、一気に読んでしまった。
そして、その後また、聖書の続きを頑張って読む気になったのだ。

信仰している人から見たら、冒涜かもしれないけれど、最後まで読んでやる!という気にさせてくれた本だ。著者も結構苦情が来たと、書いてあった。
でも、この本は、聖書の本文がそのまま書いてあるだけなのだ。(ちょっぴり言葉が、今風だけどね。)
だから、知らない人が読んだら、「ええっ!」と、思うと思う。

創世記のカインとアベルの話も、そもそもは、神様がお肉が好きだったから。
カインは、農耕をしていたので、ささげ物が野菜や果物だったので、神様に気に入られなかったのが原因。(えっ、と、思うでしょ?神様って、菜食主義じゃないの、って。)

ついでに、一番驚いたのが、神様がモーゼに「私は、妬みの神である。」っていうところ。
??????だった。(出エジプト記34章14節)

イエスも、おなかがすいた時にイチジクの木を見つけたけど、実がなってなかったから、怒って、その木を枯らしちゃったりしているのだ。(イエスもおなかが空いていると機嫌悪くなるのって感じ。)

こんなことをブログに書いていいのだろうか、と、少々迷ったけれど、今の私にとっては、大発見。
それに神様が言ったとおり「私に似せて人を創った。」のだ。

私たちに迷いや妬みや怒りがあるのは当然だなっと、ちょっと心が軽くなったのである。
(だって、イエスだって、怒っちゃうんだからね、おなかが空いてて。)

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依存か執着か?

今日お客様とお話をしていて、コレクターの話になった。

コレクターの気持ちはあまりよくわからないというのが、私とそのお客様との意見だった。

その話をしている時、「私は、手に入れたら、無くしてしまうとか、壊れてしまうかもとかが気になって、もの集める気になれない。」という自分の言葉に、ふと気がついた。

自分がどうしてリフレクソロジーは好きなのに、他の療法(どちらかと言うと、何かいるもの)には、あまり惹かれないということを以前にも書いたのだが(その時は何かに頼ることが苦手だと書いた記憶がある。)それが、その答えのようだ。

オイルがいるとか、何かいるとかだと、きっと、不安になるのだと思う。

所有に対する不安とでもいうのかしらん?

依存するのが怖いのか?

実は人より、執着が強い事の裏返しか?

はたまた前世の因縁か?

今日の会話から、自分を知るヒントをもらったようだ。

でも、お客様が、「水穂さんは、ものではなくて、自分の中に、色々なのもを持つことが好きな人だから。」と、とてもうれしいことを言った下さった。

ありがたいことである。

豚もおだてりゃ木に登ってしまうのである。

目指せ!裸で何ぼの人生を!

(と、勝手に納得)

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最近

パソの調子が悪くて(特に夜)メールやブログの更新がうまく行かない時がある。

再起動しては、フリーズし、フリーズしては、再起動。

それを待っている間に、ソファで、寝てしまう・・・だぁー、これからは、風邪をひいてしまう。

パソもそうなら、主人もそうで(私のことね)なんだか、ダランとしている。

聖書を読み始めたのはよいが、時間があるときに読んでも、かなりかかるみたい。こんなに読み応え(というのかしら?)があるのもそうそうないぐらい。
読み出すと、掃除しなくっちゃ、と思いつつ、読んでいるのだ。

私が、クリスチャンなら、敬虔な信徒となるのだろうが、興味で読んでいる私は、ただの掃除を放棄しただけの、ぐうたら人。
確かに、聖書の中に、家の仕事をしないで、イエスのお話に聞き入っている妹を嘆く姉がイエスに言い収められるところのあったけど。(確か、神の言葉を聞く事はとてもよいことだから、家のことを手伝わなくてもよい、というようなこと。)

自分に都合のよいところだけ、勝手に当てはめて考える都合のよい私。

だけど、これだけ世界で読まれていて、映画になったり、いろいろなところに引用されている読み物を読まない手は(それもうちにあるのだから)ない。

子供の頃読んだ「風とともに去りぬ」も、たくさん聖書から引用されていた。(特にレット・バトラーが、よく引用していた。)

それから、30年もたって、やっと、このことだったのか、と、わかったのだ。

それにしても、まだ、ちょっとしか読んでないけれど、イエス自身が出てくるのは、ほんのわずか、福音書だけである。旧約聖書は、すごく前のことだし、こんなんだったんだ、改めて感じたのだ。(映画「十戒」も、原作で読んだことになるのだわ、私。原作って言ってよいのかしら?)

クリスチャンの人から見れば、冒涜に近いかもしれないけれど、とりあえず読んでみようと思った意欲だけはわかってもらいたいと、思う。

ほんとに世間には知らないことだらけ。

何事も、知らないということに気がつくことから始まるのだ。

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めでたく昨日

お陰さまで、40になりました。

WOWOWで、「パッション」を見て、30年読まずにいた聖書を読み始めた。

私自身は、キリスト教徒でもなんでもないのだが、11歳位の時に、転校してきた子が通っている日曜学校と言うものに興味を持って、何回か通ったのだ。

とりあえず、新約聖書から読んでいるが、こんなのだとは知らなかった。

福音書は、それぞれが同じことについて書いていて、(キリストの誕生から受難の日のことそれから復活について)人によっては、細部が異なる。それを全部読むと、「パッション」の筋と同じになるのだ。

「神との対話」も、聖書を読んでからの方がわかりやすいとうことにも気が付いた。

あれは、聖書の新解釈のようなものなのだ、きっと。

聖書についても、シェークスピアについても、(これをふたつ並べることについて、突っ込まないで欲しいけど)聞きかじりだけはあったけれど、何事も全体を知るということは、大事なことなのだと思う。

世界で一番のベストセラーなのだから、これを機会に、最後まで読んでみようと思う。

ということで、40になった日と、今日は、聖書を読んで過ごしたのである。
そういう誕生日もあっていいと思うのだ。
40だし。

まだまだ知らないことのほうが多いのである。

まだ、40だしね。

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ぐでんぐだんに

ここ2日ばかり、身体がお疲れモード。

夏から、テキスト作りやら、ありがたいことに、ご予約をたくさん頂いていたり、先々週と、先週、ワンデイが、入っていたりして、そのまま旅行に行ったのが、この歳には堪えたのか、はたまた、好転反応か、身体は、ぐでんぐだんに、なっていた。

そういうときは、ありがたいことに、お休みを神様がくれる。(ぐでんぐだんのセラピストのエネルギーは、きっと、世界中に伝わるのだろうけどね、黙っていても。)

今週末の大台に乗ってしまう、誕生日と言うもののせいか、心も少しブルー。身体もぐでんぐだんなら、心もそうなのは仕方ない。(心と身体はひとつだからね~)

歳をとることには抵抗はじぇんじぇんないのだけれど、子供産んでないしなぁ、とか色々と、歳のリミットを感じているのかもしれない。

たらればは、言っても始まらないけれど、心のどこかにあるんだろうね。

自分の心ではあるけれど、意識してあげないと、気が付かない心。

いつも、元気でいたいなら、時々は心のふたを開けて中を覗いて見なければ。

自分に対しても、なんと、思い込みの多いことか。

この2日ばかりのブルーの時間に、また色々と感じたのだ。

ブルーもたまには必要ね。

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休暇終了

無事に昨日の昼過ぎに、帰って来たのはいいけれど、HPを開くと、トップの休暇の日付が間違っている・・・。曜日はあっていたのに。
ご迷惑をかけました。

お天気も、予報では、雨、曇り、雨とかなんとか、勝手な事を言っていたが(勝手じゃないか)気合か、神様のお心遣いか、外にいる時は、降らず、帰りは、よいお天気で、富士山もばっちりでした。ありがたいことです。(帰ってきたら、名古屋は雨だったけれど。)
ちなみに、
「普段の心がけがいいからだね。」
と、おばあちゃんに言うと
「そうだよ。」
と、即答。こういうおばあちゃんが、結構好き。

旅行に行く前に、伊豆箱根鉄道の路線を見ていたら、見覚えのある地名があった。
「韮山町」
スクールをはじめたばかりの去年4月我がスクールに来てくれた受講生の住所。

「うちはほとんど伊豆なんですよ」、と、聞いてはいたが。「えっ!こんなところだったの!」だ。だってね、私の感覚からすれば、静岡と言えば、名古屋に来る位だからせいぜい浜松とかね、そのあたり。静岡は横に長いけれど、まさか、ほとんど、じゃなくて、ほんとの伊豆とは。

改めて、遠いところから、小さなスクールを探し出して来てくれたことに感謝した。

修善寺から電話をかけると、電気屋さんが来るので、家を空けられないとのこと。それがなければ、三島まで、送っていくのに、と言ってくれたのだ。
本当にありがたい。リフレクソロジーも、お子さん(2歳半)や、ご主人を、相手に続けているとのこと。それもありがたい。

今回の旅行で、(本来の目的とは外れるが)改めて、大事なことを教わったようだ。
こういう仕事をしているありがたさと、責任。
わかっているつもりではいても、常に心に留めておかなければいけないこと。

受講生の方、神様に感謝。(おばあちゃんにもね。)

これからも精進してまいります。

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愚痴か気付きか

若い頃、かなり複雑な家庭だった事もあって、よく母と言い合いをしたのだが、その時決って母の言う台詞があった。

「どうせ、私は、母親としても、奥さんとしても、失格よ。自分でわかってるわよ。」

そういわれると、娘の私としては、困るのだ。失格人間の娘かよ!って。それに、そう思うのなら、そうじゃなくなるようにしろよぉ、って。

だれでも、自分の欠点はよく見える。思い込みから、事実まで。時にそれは、心を蝕んで、自己嫌悪の沼にはまって、なかなか抜け出せなくなるものだが。

でも、見方を変えれば、それは気付きであって、これからの自分の方向性を教えてくれているのだ。

なりたい自分になる。なりたい自分に変わる。(今の私が大好き、という方は、どうぞ、そのまま。)

何かが欠点だと思うと言うことは、自分の中に何らかの理想があったり、こういう風でありたいと思う気持ちがあるからだと思うのだ。

そしたら、そのようになるように向かっていけるではないか。目標があると言うことである。

自己嫌悪さえ感じなければ、変わりようもない。
(今朝のニュースではないけれど、人を撃ってみたかった、という理由で、エア・ガンで、人を撃とうとしたやつら。誰か、人に撃たれてみたかった、ぐらい言う奴はいないのか?お前が撃たれてみろだ。ふんっ!)

いつも、言い訳のように言う母には、「だったら、変わってよ。わかっているだけじゃ、ただのいい訳じゃん。」と、思っていた。

最悪の感情、自己否定や、自己嫌悪さえ、実は、気付きのもとだったのだ、と、気付いた今日この頃。さすが、必要でない感情は、神様も創らないんだね。

ただの、愚痴になるのか、言い訳になるのか、それとも、深い気付きになるのか、それは、自分が決めること。誰でも、いつでも、発展途上。

自己嫌悪を感じたら、それは、次のステップへの道しるべ。

敵は周りにはいなのだ。やってくるもの、全ては、味方。

P.S
今日から、二泊三日で、温泉に出かけます。しばらく、お休みです。

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イライラ

歳のせい?

おばあちゃんのところに行くことが、かなり負担になっていたようだ。

最近忙しかったのもあるけれど。

先週は、やっと、金曜に、仕事が入らなかったので(終わってみて初めてわかるのだが)休んだのだが、身体が、少し、グロッキー。

木曜のワンデイで、手にトリートメントを受けたせいもあるかも。(身体が正直になって、疲れている時は、内面に向かうので、行動的ではなくなるのだ)

イライラした気分に久しぶりになり、自分の心が辛い。

おばあちゃんにも、口調が、荒くなる。

姉に言われた「そういうときは、おばあちゃんに、言いなさい。口調が荒くなる位なら、休みなさい。」

もっともである。

悪いくせで、今までも、誰かに何かをやってあげている自分が、嬉しくて、負担がかかっているのに気が付かないときがある。

反依存。

気を付けなければ。

おばあちゃんは、自分が人の世話になるのが嫌なのだ。

ご飯を作ってくれるのが嬉しいのではなくて、楽しい会話が、楽しみなのだ。

楽しい会話ができなければ、行く意味がない。

久しぶりに、反省。

私も20代ではないから、いくら相手がおばあちゃんでも、自分の身体と心を優先させよう。

その方が、お互いのためなのだ。

恩着せがましいのは、誰でも嫌だよね。

今からは、また、自己中で行くよ。

それから、人のこと。

心の余裕は、自分のため、人のため、世間のため。

だよね。

まずは、自分なのだ。

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自己責任

ちょっと前に流行ったけれど、「自己責任」

私のように自分で仕事をしていると、嫌でも全てが自己責任。

普段の生活も、1人暮らしなので、これも自己責任。寝坊をしても誰かのせいにできやしない。

部屋が汚くたって、汚したのは誰だーーー?

私です・・・。(・・・だって)

前にも書いたが、(ずいぶん前かな?)この仕事をする前に、人に言われた言葉

「自分の人生は、自分で選んできたんだよ。」

「なんだそうか。」

それで、心がずいぶんと楽になったことを覚えている。

それまでは、「どうして、普通の家に生まれなかったのかしら?」とか、「そうすれば私だって」とか、そんなことばかり考えていたから。

生まれてきたことそのものが、自己責任。親も自分で選んできたんだからね。

自己責任と言うと、悪い結果のことに対してばかりを言うみたいだけれど、幸せも、自己責任。(もちろん感謝の心は大事だけどね。)

誰かの責任にしていると、その時は楽かもしれない。

だけども、自分の人生は、自分で創っていくものなのだ。

いい事も悪いことも、自分の判断で、したこと。

それに気が付けば、本当は楽なんだよね。

そうすれば、自分が変わるきっかけになるから。

自分が変われば、全てが変わる。

相手や今の状況は、自分では変えることはできないからね。

まずは自分が変わること。

いい意味でも、悪い意味でも「諸行無常」なのだ。(使い方変?)

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友達は大事

私には、幸いに、「あんた、あほちゃう?」と、言ってくれる友達がいる。

じぇんじぇん気を使わずに、そう言ってくれる。

ありがたいことである。

愚痴をこぼせば、「今日だけね。」とか、「ええかげんにしやーよ。」と言ってくれる。

正直な言葉をくれる友達は、こちらも気が楽。

褒めてだってくれるけどね。

もちろん、受け止めるこちらの心も大事。

「ええかげんしなよ。」で、萎縮していたら、友達ではない。

その言葉の裏にある心を汲み取らなければ。

耳に痛い言葉を言ってもらえるのは、幸せなのだ。

いつも、ありがとう。

離れていても心はひとつです。

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おつかれ~

書きたいことはあるけれど、お疲れです。

身体が資本。

まずは睡眠。

おやすみなさい。ZZ.

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感謝できることに感謝

昨日無事に(?)ベーシックの2日目が終了。

2日間しゃべりっぱなしになるのと(勝手にしゃべっているだけかも・・・)受講生の方のトリートメントを受け、私でも、さすがにお疲れモード。

家に帰り、ゆっくりとしたいところだが、おばあちゃんをお風呂に入れてあげなくてはならない。

正直、時々重荷に感じる時もあるのだが、おばあちゃんの家に行ってしまえば、不思議と重荷に感じない。(おばあちゃんは楽しい人だからね。)

自分の家に帰って来るころには、行ってあげられてよかったな、と、思うのである。

おばあちゃんは、とても感謝してくれる。いつも、「ありがとう。ありがとう。」と言ってくれる。

感謝してもらえることができる自分に、感謝する。そして、感謝できる自分にも、感謝する。

「こんな自分でいさせてくれてありがとう、神様。心の余裕をありがとう。」

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なんでもない会話

仕事が入っていて、一緒にご飯を食べられない時でも、おばあちゃんのところには顔を出すのだが、いつも思うのは、なんでもない会話が大事なんだなということ。

特に何を話すわけでもない、テレビに突っ込みを入れたり、暑かっただの寒かっただの、どうでもいい会話である。

身障者の施設で働いていた時も感じたけれど、会話って、何か目的があったり、テーマがあるときはいいけれど、何もないときは、できないものである。

お陰さまで、リフレクソロジストとして働いていたので、会話するのに糸口はいっぱいあったから、かなり助かったのを覚えている。(会話できない人もたくさんいたけれど。触れればそれは、コミニュケーションだと思うから。)最後の方には、トリートメントをする時間よりも、お話している時間の方が多かったかも?というぐらいに、利用者さんとは、どうでもいい話をした。

以前にうちのお客様で、不定愁訴に悩んでいた方がいらしたのだが、この方はいつも言っていた
「お医者様は、私の顔を見ずに、レントゲン写真や検査の結果ばかり見ている。」

うちにいらっしゃるようになってから、5.6年経つお客様は、必ず
「今日の足はどうでしたか?」
と、尋ねられるのだが、
「これだけ長いお付き合いになれば、足を見る前に、お顔を拝見すれば、お疲れかどうかわかりますよ。」
と、答えてしまうのだ。

どうでもいいような会話や、顔を見ること、それは、いろいろなことを教えてくれる。

おばあちゃんの何気ない会話から、どうやら「ゴッホ展」に、行きたいと言うことがわかったので(行きたいとはいわない。25日で終わりだね。とか、会話にゴッホがよく出てくるのだ。)今日お昼から、行ってくる予定。

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思いは現実に

昨日養成講座だったのだが、我がスクールがあるマンションは、古くて、住んでいる人は都心にしては珍しく、もう長くそこにいる人たちばかりである。
そのせいか、ルール事が、なぁなぁになっているところもあるのだが、それもまたよろし。

だけど!いつも、エレベーター前に、邪魔になるように置いてある自転車がある。確かに、自転車置き場は、狭いし、そこに置いていく方が楽なのはわかるが、置くなら、もうちょっと、隅っこに置け!と、思ってしまう。

昨日は、「ふんっ!」と思いつつ、「こんな自転車ひっくり返してやりたい気分」と、思いつつ、その自転車を隅に寄せようとしたら、いきなりひっくり返った。
「手間が増えたわい。」と、思いながら、自転車を立て直して、隅に寄せたのだが、その時ハッと、気が付いた。

思いは現実を作るというけれど、そのままじゃん。
怒り(それほどのことでもないけど)のエネルギーはきっと、強いのだ。ある意味純粋で。
仕事や恋愛がうまく行くように、なんて祈るのは、きっと自信のなさや、今までのいらない経験などが手伝って、エネルギーが、分散したりして、弱るのだろう。

これからは、疑わず自分の思いを集中させよう、何事も。と、思ったとたん、その思いがまたまた現実になったのだ。(今度はいいことでね。)

いいことも悪いことも、やっぱり自分が引き寄せているものなのね、と、改めて納得。

自分の人生、人のせいにはできないのだ。

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不惑の40?

後、一月で、満40になるのだが、最近は、歳をとることに抵抗がない。

一番意識したのは、20代の前半かな?三十近い人を見ては、私もこうなるのかしら?と、人様の目じりのしわをじっと見た覚えがある。

30をすぎてからは、年齢を意識すると言うよりも、自分の人生の方に意識が向きすぎて、あっという間に、この歳になった、って、感じ。

若い時の思い出も、とても輝かしく心の中には残っている。だけど、それ以上に苦しい思いもしてきたのだ。
自分というものがわからず、もがいた日々もあったしね。

そう思うと、まだまだこれからなのだろうが、自分の中では、確実に、自分と言うものがわかってきたような気がするし、迷うことも少なくなった。
肌の張りは衰えたけれど、心の張りは、年々増加している。

梅酒の中の梅のような気分。
年を越せば越すほど、しわしわになっているけれど、回りには、香り豊かな梅酒がある。味も角が取れてきて、まろやかになってきている。
年月の浅い梅酒は、角が立ちすぎている。

世間から見れば、まだまだ若輩ものだけれど、今まで歩いてきた人生で、少なからず知恵と言うものもついてきたし、荒波に向かっていくだけの心の備えもある。

若さと引き換えに、今の自分を手放すのはごめんこうむりたい気分である。

それよりも、今は、これからの人生に何が待っているのかと思うと、心がワクワクするのだ。

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全ては必然

最近身の上に起こることが、最初は「えーーー?」と、思うことであっても、結局は、それでよかったということばかりである。

全ては必然と言うけれど、納得の毎日なのだ。

中国4千年の歴史ではないけれど、何事も長い目で見なくては。(と言っても最近は、その日のうちにこのためだったのね。ということばかりなのだが。)

起こることは、全て必然で、一瞬は最悪でも、怒る事はない。(大家さんが、うちの駐車場の中にある物置小屋の電気を切り忘れていたので、むっとしたが、その小屋の鍵も掛け忘れていたので、今日無断だが、脚立を借りることができたのだ。勝手な言い分?)

きっと、何か意味があるのだ。

それに気が付けば、心も楽チン。

うまくいかないことは、やらなくていい。

邪魔が入ったとしても、それは、正しい道に、導いてくれているだけのことなのだ。

邪魔してくれたお陰で、本当の自分の道に戻れたりね。

何事も神様は、きちんとしてくれる。

それを疑わないことだね。

それを、最近納得したのだ。

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貧乏性

昨日は、ブログにも書いたけど、ボーっの日。
だけど、貧乏性のせいか、頭の中では、昼から自主トレをして、とか、おばあちゃんに頼まれた買い物をしなくちゃとか、色々と考えている自分に気が付いた。

朝のゴミだし以外はしなくちゃいけないことがなにもない久しぶりの日だったのに。

と、書きつつ、結局は、映画を見ながら、ソファと友好を深めていたのだが。(最近は、仕事のない日はおばあちゃんのところに行っているので、夜映画が見られない。おばあちゃんは、NHK専門なのだ。最近は、「義経」だって、見てるもんね。)

少し前までは、仕事が色々と大変で、毎日自分を励まし、「心を強くね。」と、自分に言い聞かせ、毎日、毎分のように、神様に祈っていた。

お陰さまで、ここのところ少し楽なのだが、そうすると、とたんに精神がだらける。

確かに切羽詰ったような精神状態で、毎日を過ごすことは、心にも身体にも悪い。

でも、ほっとしている自分を(だらけている?)見ると、おいおい、大丈夫か?と、言いたくなるのだ。

だから、ソファと友好を深めつつも、少し自分を責めている自分にも気がついたのだ。

私の中にも、仕事をたくさんすることがよいことであって、ゆっくりとしたペースで仕事をすることに罪悪感を感じる部分があって、(高度成長期に子供時代をすごした影響か?)そう思ってしまうのだろうと思う。

罪悪感の裏には、先のことに対する不安があるのだと思う。
今を生きていない証拠。
今というレンガをしっかり積み上げないと明日もないと思うのだが。

昨日は、ボーっとして、ソファと友好関係を久しぶりに築き、ささやかな罪悪感を感じることによって、気づいたことがあったのだ。何事も必然だね。

今日は、今を生きるを思い出す日にしよう。

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ボーっとする時間

機能突然気がついた。最近ボーっとしてないことに。

テキスト作りにも追われていたし。(めでたく終了)

テレビを見ながらボーっとすることはあっても、空や雲を見ながら、ボーっとすることがなかった。(天気が悪かったせいもあるけれど)

そして、何故か最近イライラすることも多かったのだ、理由もなく。(暑かった事もあるけれど。更年期だったりして・・・)

ひらめきがやってくるときや、何かに気づくときは、ボーっとしている時だ。

心に浮かぶことをただ流れるに任せて、ボーっとする。

まさに瞑想。

それに、ボーっとした後は、心にたっぷり余裕ができる。

私たちが子供の頃って、夕日を友達と眺めたりしながら、どうでもいいことを話したり、その夕日の美しさに見とれたり、そういう時間が多かったような。

そう思うと、最近の子供達は、大人以上に、ハードスケジュール。

一見無駄だと思える時間。

その時間こそが、本当は必要で、とっても大事なんだと改めて感じた。

今日は、ボーっとしよう。

天気もいいしね。

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相手は自分を写す鏡?

今日は久しぶりにお友達とお昼ご飯を食べ(楽しかったです。)家に帰ってから、WOWOWOで、「ユー・ガッタ・メール」を見た。何年かぶりだ・・・。

これは、昔の映画のリメイク。昔はメールではなくて、文通(古っ!)確かジェームス・スティアートが出ていたような気がする、モノクロで。

人間って、先入観や思い込みがあると、人に対する接し方が変わるんだなぁっと、思った。以前見たときは、何にも考えずに見たのだが。(この仕事をする前か。そういえば、トム・ハンクスが、若い。)

会っている時は、商売敵。ポリシーも全然違い、ああいえば、こういう関係。素性を知らずにメールをやり取りしている時は、お互いが思いやりに溢れる関係。

でも、どちらも同じ人。

自分が敵意剥き出しだと相手もそう。(相手がそうだからか)でも、どちらにしても、心の開き方の問題。

相手も肯定するか、否定するかで、同じことしても反応が変わる。

今日はそんなことを思いながら、結構奥が深いのね、なんてお思いながら、見ていた。

誰でもしがらみや利害をとっぱらったら、よい関係を作れるかもしれない。

相手を純粋に人として見てみる、それが、大事なのねぇ。

それに自分が素直にならなければ相手も素直になってくれない、そんなことを改めて感じた映画だった。(ただのラブ・コメにあらず?)

うう、私の素敵な恋は今いずこ~~~?

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以前ドラマで

「頑張れ、私。ファイトだ、自分」

というのを口癖にしている女の子が主人公のドラマをやっていた。確かお化粧で、とても美人になる女の子の話。

少々のことではめげずに、大好きな男の人に猛然とアッタクするのだが、その時にいつも、こう言ってた。

当時ちょっと元気のなかった私は、よくまねをしてたのだけどね。

声に出すとは(今時の流行じゃないけれど)不思議なことで、同じことを頭の中で考えている時とまったく違う効果を生むと思うのだ。

この仕事を始めた頃は、まだ、リフレクソロジーという名前もほとんど知られていなくて、友達が私の代わりに「無痛足裏マッサージ」と、説明してくれていたのを思い出す。

当然何の伝も無く、バックボーンもない。宣伝するにもお金がかかる。(ものすごーーーくかかる。そしてその効果は、イマイチ。弱小サロンは、宣伝費で消えてしまう。)

なので、毎朝「お客、カモーーーーーン!」と、叫んでいた。(ほんとに叫んでいたのよ。)

予約のない日も、声に出して、「1分先のことは、わからない。今にも電話が鳴るかもしれないぞ、人生何が起こるかわからない。」と、言ってたしね。

今でも、スクールを始めたはいいが、何にも伝もなく(またかよ!)、宣伝もちょぴり。ノウハウも、わからず、自分で失敗を重ねながら、少しずつわかっていくしかない。

面倒な人間関係もないけれど、失敗も成功も全て自分の責任、誰のせいにもできない。
時々、辛くなる時もある。(相手もいないくせに、「結婚でも、したろか!」と、思うこともしばしば)家賃の心配をせずに、生きてみたいよーーー。と、心の中で叫ぶ。(これは心の中でね。声に出すと、気持ちが負ける。)

だけど、そういうときは、最初の「頑張れ、私。ファイトだ、自分。」という台詞を思い出し、「私は素晴らしいリフレクソロジスト。我がスクールは最高だから。」と、自分に、声をかける。そして、笑顔を作れば、何とか心に余裕ができて、家賃の事は、忘れてしまえる。

私の秘訣は、声に出して言うこと。
あまりにも自分を褒めすぎて、段々バカらしくなって、笑ってしまう時もあるけどね。
落ち込んでいるよりは、バカバカしい自分のほうが、好きだしね。

そうやって、毎日毎日、バカバカしく生きていくのだ。楽しくね。

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夢なのか、はたまた・・・

最近変な夢を見る。

夜寝ていると、(たぶん夢の中なのだろうが)玄関のチャイムを誰かが鳴らすので、起きる夢。

その音が、ミョーにリアル。

チャイムは、夢の中なのだが、目は覚めるのだ。

この間は、3回鳴るから、驚いて起きたのだけど、夢なのよね、ッて、また寝た。

昨日の夜は、チャイムが鳴って、戸をたたく音、ドアノブを回す音、そして、「来たいと思って、いるんです。」って言う声で目が覚めた。

声があまりにも、夢の中にしては、はっきりと聞こえた気がして、ちょっぴり、怖かった。

何のことなのだろうか?誰かが、我が家に来たいということ?
これから先の、お客様、受講生の方の声?
それとも・・・・。

夢の中の事とはいえ、目が覚めるのと、音や声が、あまりにも、はっきりと、聞こえるので、何かの知らせかしらと思うのだが。

まぁ、誰も来ない家よりは、何でも来てくれるというのは、いいことかもね。

と、勝手に納得しているのだ。

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料理をするようになったのは

生まれた時から親の都合で、おばあちゃんに育ててもらったのだが、おばあちゃんも私が保育園の頃におじいちゃんを亡くして、大変だった。

確か高校の頃。自分の子供と私たち(4人兄弟)を育て、自分は仕事もしていたから、夕飯は、スーパーのお弁当という日が多くなっていった。

それが嫌で、その頃仲良くしていた(?)美術の先生に、
「お弁当が嫌なんだよね。寂しくて。」
と、愚痴を聞いてもらった時、
「自分で作ればいいんだよ。先生なんか、コキールとか、作っちゃうよ。」
と、言われた。

先生も(その頃のうわさでは、離婚したとの事。今ほど離婚は、世間には受け入れられていなかったからね。)小さい息子さんと、暮らしていて、そして、男だった。

それから
「自分が食べたいものを自分が作って、人に食べさせてあげたらいいんだよ。料理も楽しいよ。」
とも、言われた。

目からウロコと言うわけではないけれど、
「なあんだ、そうか。