勝手に納得

面白いな、と思ったこと

本当はいけないことなんだけど・・・。
2,3日前の朝、おばあちゃんのところに捨ててないゴミがあることに気がついた。
同じ通りに面していても、おばあちゃん側と私の家側とではゴミの収集時間が違う。私のところのほうが遅い。
なので、私のところで捨てればいいと思って帰ってくると、その日に限って、すでに終了していた。(12時近い時もあるのに。)

一緒にいた姉が、お向かいのマンションのゴミ捨て場に「ごめんなさいしてきたら」というので、悪いとは思いながら、捨てさせてもらうことに。と、同時に
「そこはだめだよ!」と、車から声がする。それも結構なお怒りの声で。
「ひぇーーー」と思いながら、「すいません!」と、拾い上げ、家に持ち帰った。

確かに、マンションは管理人さんがゴミ捨て場の清掃をしたり、分別していないゴミの後始末などをしているから、部外者が捨てるなんてよくないことなんだけどね。
でも、まあ、ちゃんとしたゴミなら、そう怒らなくてね~、と、思っていたら姉が
「おじさんは自分だけが完璧だと思っているのかしら?」と。

そこで、よくよく考えたら、そのおじさん、きっとそのマンションにお住まいの人だろうけど、車を止めていたのは、なんと歩道。
おじさんそれって・・・・おじさんもだめじゃん。

でも、私もこのおじさんと同じことをよくしているんだろうな、と思った。
自分のことを省みず、人に対して批判する。

久しぶりに思い出した
「罪なき者だけが、石を投げよ。」

思い出さしてくれたおじさん、ありがとう。

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なるほどね

昨日映画を見ていて思ったこと。
アンソニー・ホプキンスが出ている映画で前にも一回見たような気がする映画。
(ちなみにアンソニー・ホプキンスは好きな俳優さん。レクター博士じゃなくてね。念のため。『日の名残り 』の執事役がよかった。女中頭(これって今は禁止用語?)のエマ・トンプソンがそばによってくる場面で、ほんのわずかな間執事の顔から男の顔に変わる場面が素晴らしい!)

今回の映画は大富豪が山で遭難する話。
大富豪なんだけどかなりのインテリで、知識がすごいという設定。
山小屋でもいつも本を読んでいる。
(とあらすじは割愛)

で、山で遭難したときに言う台詞
『遭難して助からないのは、恥じのせいだ。どうしてこんなことになったのだろうとか、俺はバカなことをしたとか、恥じて死ぬ。恥じてばかりで、やるべきことをしようとしなかったからだ。』(毎度うろ覚え)

そして、この台詞の通り、この大富豪は冷静に対処していく。

ここで、大富豪はこういうふうだから大富豪になれるんだろうな、とみょーに納得した。

くよくよするだけのために過去を振り返ってもしょうがない。

大富豪にはなれないかもしれないけど、人生をどう創っていくかは自分しだいだもんね。

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チャレンジ

この間お休みのときに何気にWOWOWをつけていたら、映画が始まったので見た。
映画自体はそれほどたいしたものではなかったけど(監督さん、製作者さん、ごめんなさい)、ある台詞に「おおおおーーー!」となった。

(映画は『ブルース・オールマイティ』の続編『エバン・オールマイティ』というやつ。モーガン・フリーマンが神様役で出てくるやつね。)

(毎度のことうろ覚えの台詞ですが)
「神に『勇気をください』と願えば、神は勇気にチャレンジする機会をくれるのだ。」

おお、そうだ、そうなんだんよね~。神様ってさ。

オーラ・ソーマでも4本選ぶボトルのうち2番目は「チャレンジ」と呼ばれる。(今は変わったようだけど)
この「チャレンジ」とは、克服すべき人生の課題であり、それを克服することがギフトとなっていく、ということを表す。
最近はスピリチュアルを特に意識していることは少ないけれど(というか、基本的にはそういう考え方でいる場合が多いので)こうやって突然「おお!」と言う言葉なんかに出会うということは、その時に本当に必要なものなんだろうね。

確かに私の人生、チャレンジばかりだけど、ほとんどはギフトとなっている。
一見うまくいっていないようなことでも、後々になってみれば、それが自分にとっては、とーっても必要なことだった、と思えることも多い。

失敗は成功の元、というけれど、人生に失敗なんてないんだろうね。
成功するための過程なんだろうね。
(久しぶりに最初と話がずれた?)


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熱い奴、再び

最近はお蔭様で教える機会が増えた。

カルチャースクールなどでは、自分だけで仕事をしていたら出会えなかった方々にも教えることができて、とっても幸せ。

まあ、リフレクソロジーも私が仕事を始めた頃に比べると知名度も高くなったので、受講生さんも気軽に参加しやすいんだとも思うけどね。

以前は、リラックスソロジー?とか、レヒュレクショロジー?とか、パッと見ただけでは読めない人も多かったもんね・・・(とおーーーい目)

でも、教えていて思うことは、その知名度とは裏腹に未だに本当はリフレクソロジーって何ものなのか?ということは、まだまだ知られていないということ。

毎回「え!そうなんですか!」といわれるのは、反射区とつぼの違いを違いを教えたとき。

それと、オイルで行うことはないと伝えたとき。

あとは、確実に圧について驚かれる。

「そんなんでいいんですか~?」

(「いいんですよ、もちろん。」と、答えるけど。)

足つぼ、とか、足裏マッサージとか、が一般的に広まってしまっているので、こういう誤解も致し方ないとは思うのだけれど、

つぼと反射区は、まったく別のもの(考え方は似ているが)

また、マッサージとも違うものなのだ。(筋肉を揉むのでもなく、ほぐすものでもない。反射区に対して垂直な刺激が必要。だから、オイルは使わない、使えない。)

そーーんなことを教えるたびに

「ここに来てよかった。白紙の状態のときにちゃんとした事を教えてもらえて。」

なあーーんてことをいわれると、いつものように「豚もおだてりゃ木に登る」状態。

そいでもって、調子に乗って、セルフ講座で、ホームケアの領域まで、ホームケアで、ベーシックの領域まで、ベーシックで養成講座の領域まではみ出してしまうこともしばしばなのだ。(で、毎度、じ、時間が・・・・)

(まあ、たくさんの人にリフレクソロジーの本当のよさを知っていただくことが私のミッションなので、これでいいのだ!だ?)

先日もカルチャースクールのホームケア講座を終了された方がトリートメントを受けに来てくださったのだけど、終了後

「身体の中に効くっていう感じがわかりました。」

と、他のところで何回も受けたことがあるはずなの、初めてそう感じたみたい。(その感想を私が喜んだのは言うまでもないのだけど)

むむ、やっぱり、まだまだ本当のリフレクソロジーは知られていないのね。

と、これからのミッションの遂行に向かって、再び熱いものが私の心に湧き上がった。(大げさすぎ。。。)

ということで、あーんなところや、こーんなところで、人様の手を押しながら「リフレクソロジーは云々」と言っている奴がいたら間違いなく私です。

遠巻きでよいので、暖かく(生ぬるく?)見守ってやってくださいね。

けっして怪しい奴ではありませんから。(念のため)

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お墓参り

先週、母にちょっとした用事で電話をすると、母が「日曜に、お父さんのお墓参りに行くけど、あなたも来る~?」って、ついでのようにぽろっと、言った。

その時はあいまいな返事をしたけど、電話を切ってから、そういえば、2,3日前に父が夢に出てきたなあ、と、気になった。(まあ、父はしょっちゅう出てくるんだけど)

毎度、毎度、墓参りは、仕事にかこつけて行っていない。法事すら、スクールと重なることが多くて、行っていない。

まあ、『千の風になって』じゃないけれど、どうせ墓なんかにいないだろうから、と、この歌が流行る以前から、思っていたので、「ま、いいか」だったんだけどね。

いつもなら、母は弟の家族と一緒に出かけるので、最近は甥も姪も大きくなったし、弟の車も小さいのに買い換えたので、私が行くとなると定員オーバーのはず。だけど、「あなたも行く~?」と聞くところをみると、電車で行くのかな?と、勝手に想像した。

仕事も入ってないし、最近、話しをしていないし、たまには母と電車の旅もいいかな、(お墓は三重県の津にあります)と、思い、昨日電話したところ・・・・。

「あなたが来きても、車に乗れないわ~。私があなたの分まで、お墓参りして来るから、今回は(も?)留守番でいいわよ~」だって。

なんじゃい、いつもどおり、車か・・・でも、母よ、じゃあ、何故、誘ったんだよ~。

と、心で思いつつ、その後しばらく母と話をしたけど、これがまた、よくしゃべること、しゃべること、お前は、女子高生か!と言うぐらい。(今時は、メールか・・・・)

それこそ、父が生きていて、そばにいたら「そんなに、しゃべることがあったら、行って話してこい!!!」と、脇から怒鳴られそう。

その後、いい加減しゃべってから「あら、長電話ね。」と言って、母のほうから切ってしまったけどね。

電話を切ってから、今回は、私にとって、墓参りはどうでもいいことだったんだな、と、思った。

2,30分、母の話を聞いてあげることが必要だったんだな、と。(まあ、もともと、お墓参りにいこうかと思った理由が、母と最近話しをしていないし、だったんだけど)

先日のお葬式のときも思ったけど、お葬式も、法事も、お墓参りも、死んだ人のためって、いうより今生きている人のためだな、って、思う。

普段ならめったに顔を合わせることのない親戚や、家族に会う時間を作ってくれる。

亡くなった人たちからのギフトはたくさんあるけれど、こういうのも、そのひとつなんだよね、きっと。

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やったほうがいいけれど・・・

やらなくてもいいことは、やらないようにしている今日のこのごろ。

例えば、今日はお休み。だけど、やってしまったほうがいいと思う仕事はあるのだけれど、実はやりたくない。だからやらない。(笑)

ちょっと前の私なら、やったほうがいいけれど、やらなかったことに対して、ちょっぴり罪悪感を感じてた。

でも、その罪悪感なんて、ほんとに自己完結。

勝手に、思って、勝手に自分を非難しているだけ・・・。

自分の心しだい。

そんなものとはオサラバするに限る。

それと、今までの経験で、やったほうがいいけれど、やりたくない、というときは、保留にするほうが、結果うまくいく、ということが、多かった。

例えば、今日は宛名書きをしたほうがいいと思うのだけれど、こういうときに、やる気がなく、ほっておくと、どういうわけか、同封したほうがいいものが、その後出てきて、『あわてて出さなくてよかった~』なんて事が、起こることがある。

まあ、なんだかんだと、やる気のない言い訳を(必死で)しているようなものだけれど。(爆)

昨日の雨がすっきりと上がって、気持ちよく晴れた秋晴れの今日。

せっかくのお休みをのんびり過ごそう。

それに、罪悪感だって、突き詰めてみれば、お休みの日に、がんばっているわ~(と、人から思われたい)、私がいるから、なんだからね。

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インディパパを久しぶりに見て

ベーシックコースが明日もあるというのに、土曜日の夜、ニコニコで、インディ・ジョーンズの3作目(パパの出てくるやつです)を見つけてしまい(ショーン・コネリーが好きなのです)見てしまった。

本当に久しぶりで、じっくり見たのは、もう10年ぶりぐらいかしら?

今回見て、気になった(というか、気がついたのは)、インディパパの危機に陥ったときの落ち着きぶり。

ひょうひょうとしていて、ジュニアのあわてぶりとは大違い。(少々あわてているところもあったけど)

それで、ふと思ったのが、人って、それなりに歳をとっていくと、漠然とではあるけれど、「どうにかなるさ、ならなかったらそれまで」っていう気持ちになるんではないだろうか、ということ。

若いときは、遭遇する問題は、何もかも初めてで、私の人生これまで!なんて、思いに駆られることもしばしば。

しかし、この私でさえ、今までの数少ない経験からでも、「なんとかなるさ、だって、今までもそうだったもんね。その証拠に、取り合えず、この歳まで生きてきているのだから」なあーーんて、思うのだから。

今日は敬老の日で、テレビでも特集番組をやっていたけれど、長生きの秘訣は?と聞かれて、決まって出てくる答えが

「くよくよしないこと」

これって、くよくよしない性格だから、長生きできた、というよりも、くよくよしても始まらない、ということを経験の中で知ってきた人の言葉なのではないのかな、と思う。

インディパパと最近のうちの母の姿がダブったのには、笑えたけど、母もいろいろ山あり谷ありの人生だったから、70を越えた今、飄々と毎日を送ってくれるのもいいもんだ。

それを見ているだけでも、くよくよしない人生を歩めそう。

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必要なものと、いらないもの

相変わらず、名古屋は暑いですが、皆様お元気ですか?

姉が家族で帰省しているので、おばあちゃんの世話と愛情(?)を一身に受けており、なんだかんだと更新ができていませんでした。(朝からお風呂に入れると、ぐったり・・・気がつくと、お昼。)

ところで、本題。

この間、お客様との話の流れで、私と両親との話になった。

このブログでもいろいろと書いているので、改めてまた書くこともないのだけれど、世間から見ても、かなり確執のある親子だった。

母とはいい関係になってきている今だから、以前の自分の気持ちを人にもさらりと言える様になったと思うのだが、当時はかなり、深刻。

なんせ、「こちらから、歩み寄ったら、負け。」でしたから。(今思うと笑えるが、当時は真剣。人様にも言えるわけがない。)

だけども、父が死んでしまうちょっと前に、父から「許す」ということを教えてもらって、少しずつ楽に(自分の心がね)なった、という話をしたのだ。

けれど、これは、別に父が親の役目として、「人を許すということは、これこれこうするのだ」と、私に指南したわけでもなく、ただ、最後に会話したときに、私が父を許していることに気がついただけ、というお話。

許すというよりも、相手を受け入れた、と言うほうが適切かもしれないけれど、どちらにしても、父との最後の会話が、私の心を楽にしてくれた。

そのような話をお客様としていたのだが、その後もちょっと思うところがあった。

父は65歳で亡くなっているので、今の時代にしては、長生きではないけれど、死んでしまうときに、ちゃんと自分の役目を果たしてくれたと思う。

誤解を受けるかもしれないけれど、「死ぬ」ということによってしか、その役目を果せないものもあると思う。(生命保険を残してくれたとかそういう話じゃなくて)

残されたもののこれからの人生に、必要な何かを残していってくれて、いらないものは、持っていってくれる。

そして、人の死は、時を選ぶ、といけれど、父のときは、本当にそう思った。

私の父は、絶妙のタイミングで、私のこれからの人生に必要な課題を、ちょっぴりヒントをつけて残していってくれた。

ああ、こんなことを書くと、あの世から父の高笑いが聞こえてきそうで、癪だけど(笑)

ま、お盆ということで。(じゃ、あの世じゃないか。今こっち?)

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何のためにするのか。

最近仕事が忙しくて(ありがたいです)なかなか更新できておりませんが・・。

(講座の開講が増えると、いかんせん、PCとの交友関係も深めることになり、つい、つい、ブログが後回しになり・・・。)

と、いうことで、本題。

以前にも書いたけれど、何かをするときは、動機が肝心。

私の場合、気乗りはしないけど、お金のために~(経営者は辛いのだ)なんて、思って、事を始めると、ほとんどうまくいかないか、嫌な思いをすることになる。

と、以前に書きながら、なんでまた?と思う方もいるかもしれないけれど、今朝、おばあちゃんの家のトイレ掃除をしていて、ふと思ったのだ。

実は、2年ほど前から、毎日のトイレ掃除を素手で行っているのだが(金運UP,いい事と出逢うことがUPするらしいので)自分の家、おばあちゃんの家、仕事場、バレエのある日はスタジオも、と、もう、今日はどこを掃除して、どこをまだしていなかったのかが、わからないぐらいしているのだけれど、何故か最近、苦になってしまった。以前は金運のためにーーーー、と、のりのりで、燃えていたのに。(あ、今では金運大爆発!何てことではないです、念のため。)

で、今朝ふと思ったのが、「なぜするかと言うと、おばあちゃんが気持ちよく使えるためなんだから」と、いたって単純明快なもの。

だから、素手でなくても、ブラシでも、時間のないときは、トイレットペーパーで、汚れているところをさっさ、と、でもいいんじゃん。と。

と、思ったら、気分がすとん、と、楽になった。

(本来、金運UPのためなんて、本末転倒なのだ。)

でも、それでも、毎日するようになって汚れが気になるようになったのも事実なんだけどね。

自分の始末は、最後まで自分でしろ、ということでもあるんだろうけどね、トイレ掃除って。

布ナプキンを使い始めたときも、自分のことを自分で始末する、と言う意識が一番強く感じた。

自分から出たものを汚いものとして、なるだけ見ないようにするんじゃなくて、自分で面倒を見る。(すべてを見ているわけじゃないけれど)

素手でできるようになって、何かを乗り越えた感もあったのだけどね。(大げさか・・・)

また、明日からもトイレ掃除続けられそうです。

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顔を見て話す

金曜日は、バレエの生徒さんと、「ル・パルク」の興奮(?)覚めやらず、帰りにちょっと寄り道。(余韻はみんなで共有がよろしいね。)

終わってからだから9時過ぎなのに、いろいろな話で(スタジオではそれほど話をしないので)盛り上がりまくり・・・。

気が付くと11時過ぎ。

ひとりは県外から、もうひとりは、人妻(既婚のほうがいい?)

私も久し振りのお出かけなので、歩くための靴じゃなく(サテンのつま先トギトギのね)足が痛い。

飲んでいるのは、栄の仕事場の近く、徒歩2分のところ。

県外の生徒さんを泊めることにして(人妻の生徒さんは、だんな様がお迎えに・・・ちょっと、うらやましい、ひとり身のおばさん・・・)栄の仕事場に帰り、県外の生徒さんとは、その後もおしゃべり。

バレエを実際に見て、感じたこと、旅行の話、仕事の話、今までの人生の話、それはもう、たくさんお話をした。(寝たのは、なんと!4時!)

その話の中でも、印象に残ったのは、

「人の顔を見て話を聞く」ということ。

仕事場では外国の方が多い生徒さんなのだけれど、言葉があまりわからないので、話をするときはわからないぶん、相手の顔を見て話を聞く。

それから、海外に旅行したり(この方はスペインに少し滞在経験がある方)知らない言語の人と話をしたとき、言葉がわからなくても、片言、身ぶり手振り、で、通じたときは、言葉の情報量よりも、心が通じあった!と、感じることが出来た、ということを話した。

そういう話をしていて、自分は実際にどれだけ人の顔を見て話をしているか?と、思ってしまった。

最近は、メールでやり取りしていることの多いこと・・・

メールはとても便利だと思う。でも、やっぱり、メールは、言葉の幅が広がらない。

「仕事は言葉のキャッチボール」(うろおぼえ、毎度のことだけど)

ということも彼女から聞いた話。(誰かの言葉らしい)

会って、話して、顔を見るのとは、やっぱり違う。

会話ののりしろとでも言うか、次から次へと連想のように広がるのは、会って話している会話。

そして、やはり、相手の顔をしっかり見て聞き、話すことは心に残る。

顔を見て話すことの大事さを改めて感じた「ル・パルク」の夜・・・・。

あああ、ルグリの表情が忘れられない・・・・

オペラグラスで、見たとき目が合ったと思うのは、勝手なファンの心理ね・・・。

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