« 2005年10月 | トップページ | 2005年12月 »

2005年11月

何故なのかが大事

先日の講習で、受講生の方が、言っていたことが印象に残った。

子供を育てるのに、子供が(特に娘さん)何か変わったことをしたら、(どちらかと言うと悪いこと)それを責めるのではなくて、「どうしてそうしたか?」を話し合わなければ、と。

とても、共感できたし、私の若かりし頃、両親に、そう思ったことがある。(不良娘だったからね。はは)

身体についてもそうだと思う。
身体は何か理由があって、その状態なのだ。

鼻水が出る。(炎症の手助け)せきやたん。(何か悪いものを外に出したい)熱。(身体に入ったウィルスなどと戦っている)

なのに、私たちはこれらの症状の原因を探ることなく、悪いことと思って、薬を飲む。
身体は本来の働きをしているだけなのに。身体は、必死なのに。それもよい方向に向かうために。

痛みに対して、ただ単に薬を飲んで、痛みを抑えるって、やったことに対して、ただ、怒るだけの親(もしくは大人)のようなものかしらと、思った。

身体も子供も(もちろん大人もだけれど)何かを訴えたくて、その状態なのだ。

身体や心の声を聞くって、大事だよね。

だって、理由があるんだもん。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

紅葉

今日は復活したので、ぼよよんの身体を引き締めるために、午前から、自主トレ。
強化しなければならない筋肉を実感。どこが弱っているかすぐわかるので、明日からはちょっと頑張らないと。

栄のトリートメントルームに行くまでに、白川公園の脇の並木道を通るのだが、最近は紅葉がきれい。今朝も紅葉した木々を見ながら、自転車をこいでいた。
ここ何年かは、わざわざ、もみじ狩りに行くこともないけれど、この白川公園と若宮大通の銀杏は、とてもきれいだ。(つぶれた銀杏のみは、ちょっと辛いけれどね)

家の裏にも、小さな公園があって、春は桜、そして今の時期は、その桜の紅葉がとてもきれい。淡い黄色とほのかなピンク色に見える葉が、なんともやさしい雰囲気をかもし出している。たった、2本の木だけれど、物干し場から見える取って置きの風景。
洗濯物を乾すのが楽しいのだ。

どこかに出かけていくのも楽しいけれど、日常の中にある美しさを足をとめて観賞するのも、心にはとっても効くのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

体力不足

この3日間は、死んだようになっておりました。

土曜の夜に、姉夫婦から急に電話があり、「明日は仕事は?」と、聞かれ、「今のところは入ってないよ~」と答えたら、「じゃ明日、長島温泉の遊園地に一緒に行ってね。」と。

自慢じゃないけれど、姉夫婦は、二人とも、ジェットコースターに乗れない。でも、子供は乗りたいという。(一緒にバレエをやっている甥)私は、大好き。だからお願いということだったのだ。
そう言えば、好きだけれど、この歳になるとそう行くところでもないので、ここ何年かは久しぶり。長島温泉となると、ひゃー、23年振りである。
このところ気分がぱっとしなかったし、いい気分転換だわ、と、「よっしゃー明日は休み!」と、快く快諾したのだった。

なのに・・・甥っ子は、最初のチルドレンコースター(大昔からある逆さになったり、回ったりしないやつね。)で、リタイヤ。(思っているより、怖かったらしい。血は争そえないと言う事?)
ホワイトサイクロンはだめ、スクリューコースターもダメ、シャトルループもダメ・・・。
唯一ちょっと面白いものに乗れたのは、高いところから一気に池に落下する(名前忘れた)やつ。これ、落下の衝撃を水で吸収するようになっているので、見ているほうが面白い位だった。だってね、水がかかるところは、「水しぶきで、身体が飛ばされますから、柵につかまっていてください」って、看板があったぐらいなのだ。毎回虹が出たしね。乗っている方は、あっと、言う間に終わり・・・。ポンチョを着ていても、水浸し。

「ホワイトサイクロン乗りたいよ~。」と、駄々をこねたけれど、誰も一緒には乗ってくれなかった・・・。そして、冷たく「乗りたかったら、ひとりで乗ってこや~。」と、バリバリの名古屋弁で、小さい方の甥に言われ、シュンとした。

なんだかんだといいながら、それでも半日遊び、帰りは、アウトレットモールで、お買い物をして帰ったのだ。(ホワイトサイクロン乗りたかったよ~)

その日はもう、お疲れで、姉のところで晩御飯もご馳走になり、帰るころには、うとうと。これが子供だったら、そのまま誰かにベッドまで運んでもらって、至福の眠りにつくのだが、私は重い身体を引きずって、家まで帰り、自分で寝た。(あたりまえだけれど)

次の日は、月曜日。バレエの日。午後からの仕事を済ませて、5時には、スタジオに。
それから、9時過ぎまで、スリーレッスン。6時半からのクラスは、少しレベルが上がってきたので、先生もお手本が大変なのだ。なのにレッスン不足で、身体が重い。でも、飛ばなくてはーーー。なのだ。ボロボロになって、家に帰り、寝た。

ダー、次の朝の身体の重いこと。「今日は仕事は入りません。」と、宣言をして、ずっと、ソファと、親交を温め、意識があるのかないのかの一日を過ごし、今朝復活した。

そして、ながながと、更新が滞っていた言い訳と、自分の体力のなさを報告?しているのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ハーブ療法講座

今日は我がスクール平田先生の本業でもあるハーブ講座をアシスタントと称して、聴講。
手前味噌になるかもしれないが、これが面白い。

ハーブといっても、身近にあるのもを、というコンセプトから、できるだけ家庭にあるものや自分で育てるものを取り上げている。だから今日は、にんにくとなんと、お茶(緑茶)。あと、マシュマロー(本とのマシュマロを作る木)マリーゴールド。(平田先生は、学術名で教えるので、本当は聞きなれない名前なのだが)

少人数なので、質問も随時できて、受講生の方から逆に教えられることもあるのだが、それがまたこの講座の面白いところ。参加型講義とでもいうのか、大学のゼミを思いだす。

こういうとき少人数の講義っていいなぁ、と思うのだ。講師がたんたんと進めるのではなくて、マニュアルのない講義。先生にとっては恐怖だけどね。どんな質問が飛び出すかわからないから。でも、またそれも、教師の腕の見せ所。そして、そういう講義は生きているから、面白く興味深くて、記憶に残るのだ。(同じ講義内容でも、個性があるってかんじ。)

講習が終わったあと、小さな名もないスクールだけれど、「小さくても本物のダイアモンドだからね~、私たちは。」なんて、言い合いながら、お互いプロとしての意識を高めあったのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

久しぶりにイライラ

昨日は久しぶりにイライラしている自分に気が付いた。

朝から、何故だかすっきりしない。些細な母の言葉に、むっとする。ちょっときつい言葉で、返してしまう。相手も、きつい言葉になる。(はぁ~、悪循環)肩が痛くなってきたし。背中も痛い。

自分の仕事は、気を入れ直して、無事に修了。仕事をしている時は全然気にならなかったのに、終わるとまた、肩が痛い。それに口では「えらいよ~、しんどいよ~。」を連発している。

自主トレをして少しはよくなったものの、気分は、ブルー。そして些細ではあるが嫌な事がちょっと起こったのだが、よい子になって、気を取り直した。(これがよかったのか悪かったのか・・・)

最近夜に自分の時間がなくて、夜ゆっくりするということがなかった。ゆっくりしていると、寝るのが遅くなり、それが、また、心がゆっくりしなくなる原因になる。
それには気が付いていて、おばあちゃんにも、今日はお家に行かない宣言をして、自分のために夜の時間を確保していたのだ。

なのに、身体の調子がどんどん悪くなってきて、それどころではなくなるかも?ということにまたイライラ。セッカクの夜なのに~(大げさです)

自主トレから帰るとお風呂に入る気力もなく、迷うほど。だけど、久しぶりに自分をゆっくりお風呂に入れてあげらるじゃん、それに、肩にもよいわ~と、まずはお風呂につかり、ビールをぐいっと飲んだら、結構元気になり、自分の現金さに驚きつつ、顔がゆるむのがわかった。(どうやら、おなかも減っていたみたい・・・。)

顔もゆるめば、心もゆるむ。最近はいい子ちゃんになりすぎていたみたいで、かなり、たまっていることに気がついた。その証拠に、さっき起こった些細なことに対して口から出る出る罵詈雑言。本当は怒っていたのね、私。である。

それをきっかけに、最近の些細なことだけれど、自分は本当は気にしていたことが、ぼろぼろと、出てきたのだ。(些細な出来事を起こしてくれた人に感謝です。)

出てきてしまえばこっちのもの。あとはさようなら~だけ。

身体も心もゆるゆる君になって、10時に就寝しました。

怒りは、正しい感情で、それを抑圧することが、問題。表に出してあげれば、その怒りに潜む本当の自分の心が見えてくる。だなぁ、やっぱり。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ベビーマッサージが教えてくれたもの

なんだかんだといって、ベビーマッサージの指導者講習も来年の2月で3回目の開講となる。

最初は私はお手伝い、と割り切っていたのだが、アシスタントとして参加して、改めて「触れる」ということが、マッサージとかボディワークの原点なのだな、と思ったのだ。

ベビーマッサージは、相手が0歳児なので、いわゆるマッサージのように筋肉に働きかけるとか、そういったものではない。やさしいタッチが基本。難しい理論や知識は必要ない。
そして、相手は赤ちゃん。(当たり前)自分で望んで、受けるわけではない。
マッサージするのは、お母さんだったり、お父さんだったり。赤ちゃんにとっては、大事な人たち。マッサージを通じて、思いが伝わる。

リフレクソロジーは、(他のボディワークもそうだと思うけど)セルフの場合と人にしてもらう場合の効果が、はっきりと言って違う。
もちろん、セルフでも効果はあるし、身体の調子もよくなる。(私なんて、ほとんどがセルフだからね)人に触れられる気持ちよさ、安堵感、それが大きいのだと思う。(もちろん、人にしてもらう方がリラックスするしね)

ベビーマッサージも、お母さん達にとっても、とてもよい効果があるという。お母さん自身がとてもリラックスするのだそうだ。

リフレクソロジーも面白いことに、トリートメントしている方も気持ちが安らぐ。
受講生の方のなかにも、そういう感じがするという方も多いのだ。

ベビーマッサージの講師の市川先生もお母さんに不安があると赤ちゃんに伝わるので、そういうときは、控えるようにと、指導されていたが、リフレクソロジーのコースの中でも、それはとても大事なことだと、教えている。(自分の心が安定しているということ)

いろいろな療法があるけれど、どの療法も知識もテクニックもとても大事だと思う。
だけど、一番大事なのは、相手を思う気持ち、それに尽きると思う。
その気持ちが、知識を得たい、テクニックを向上させたい、ということに自然に繋がっていくのだと思う。そういう風にスクールでも教えてきたつもりだけど、ベビーマッサージ講習を受けることによって、やっぱり、そうだよなぁ、と思ったのだ。

コース中に、受講生の方のモデルになることがあるけれど、とても気持ちよい。(眠るわけにはいかないけれどね。)テクニックはまだ、未熟であってもね。
プロになると忘れがちだけど、一生懸命に丁寧に行うこと。これも大事だね。そして、トリートメントを楽しむこともね。
よいトリートメントは疲れないのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

種まき

いろいろなところでリフレクソロジーの話をさせてもらうことがある。

それがご縁でお客様になっていただく場合もあるが、そうでない場合も多い。

リフレクソロジストとして、いろいろな方にその存在や素晴らしさを知っていただくことは、とてもうれしいことなので、私の話を聞いて、身体の調子が悪い時に「よし、足でも揉んでみるか」と、思っていただけたら幸いなのだ。

先日、深夜番組で、20年前に風船につけたコスモスの種が、山を超え、谷を超えて、あるおばあちゃんの山に届いた話をやっていた。

そのコスモスをそのおばあちゃんは20年咲かせ続けているらしい。最初種が届いた時は手紙をやり取りしたらしいのだが、その後は音信不通になっていたそうだ。

それでも、20年毎年種を取り、またその花を咲かせていたおばあちゃんにとっては、何かしらそのコスモスの種を拾った(というのかしら)のは意味があったことなのだろう。

その風船を飛ばした女の子は、その後20年も花を咲かせ続けていてくれたことは知らなかった。(番組で、娘さんが、その女の子に合会わせてあげたいということだった。おばあちゃんはもう、92歳だったから)

種を蒔くということは、そんなものかもしれない。

蒔いた種の花をみることはないほうが多いかも。それに、知らないうちにどこかにこぼれ種を蒔いているかもしれない。

私にとって、リフレクソロジーは、もちろんご飯の種なのだが、リフレクソロジースクールとサロンの経営者の前にリフレクソロジーをとてもいいものだと思っている人間なのだ。

お客様として、来ていただかなくても、知らないところでも、そして、知らないうちにでも、リフレクソロジーを少しでも多くの人に知って頂いて、足を揉んでみる、ということに興味を持てもらえたら、リフレクソロジスト冥利に尽きるのだ。
(もちろん、お客様になっていただくのは、大歓迎なのだけれどね。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

軽くなる

先日の養成講座のコースのお昼ご飯の時、平田先生と受講生の方一人と私の3人で、話をしていて面白い話をした。

「歳をとるって、結構楽しみ。」と、私。

「ああ、なんだかわかります。」と、受講生の方。

「歳を取るとお余分なものを捨てていく感じがするね。」と、私。

「そう、そう。軽くなりますよね。」と、受講生の方。(ちなみに、その受講生の方も40をすぎている。平田先生もすぎている。)

その後、若い時があってこそ、今のこの軽さがあるんだという話になったのだが。

自分で山に登ってこそ、いろいろなことがわかってくるのだなと思う。

確かに若い頃、(今でも充分若いといえば、若いけど)年齢を重ねた方から、色々な助言を頂いても、「そんなことを言われても・・・」ということが多かった。

「ペギー・スーの結婚」じゃないけれど、今の感覚で、あのころを過ごしていたら、ああだったかも、とか、こうだったかも、とか思うし、そういった助言にも素直に耳を傾けられたと思う。

初めての山登りをするものにとっては、不安が一杯なのだ。きっと、ああなったらこれも、こうなったらこれも、とかなんとか持っているうちに、リュックは、パンパンになっていくのだろうね。

何度か山を登るうちに、あれはいらない、これはいらない、と、余分なものを捨てていく・・・一番大事なのもがわかってくる。山に登るには、軽いに越したことはない。

ふーっ、何とか危なっかしくも、それなりに素敵に(?)歳をとっているつもりなのだが・・・。

まだまだ、リュックには、余分なの物が一杯かしら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

心配をするということ

最近どんなことでも心配をしない、ということにしている。

老後の心配、お金の心配、などなど。

「思いわずらったからといって、自分の寿命を延ばせるだろうか?」って、イエスも言っている。

「彼らは、(中略)ただ現在のことだけで暮らしている。だから顔色が明朗なのである。おろかな人は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために萎れている。」と、お釈迦様も言っている。

「心に疑わないで信じるならば、その通りになるであろう。」とも、イエスは言っている。
(その前のイチジクのエピソードは、イマイチだけど。)

やっぱり心配しない方がいいみたいね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ブルーとグリーン

私のオーラソーマのソウルボトルは、「ブルー/グリーン」偶然にも(必然的に?)ハート・チャクラのボトル。(アナハタ・チャクラね)

昨日WOWOWで、「ハッピーフライト」という映画をやっていたのだが、(ハリウッド版スティワーデス物語)その制服の色がブルーとグリーン。

それだけで、嬉しくなってしまう。この色の組み合わせは、心がワクワクするのだ。

この3番のボトルを見ると、好きな人といる時のような心楽しい気分になる。

映画の中でこの色の組み合わせを見ただけで、ワクワクするなんて、よっぽど好きなんだなぁ、と、みょーに納得した夜なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イギリスの魔女

リンク: Herbal Medicine(Phytotherapy)~植物療法.

これが我がスクールの病理、解剖生理担当の平田のブログ。

今日、久しぶりに養成講座で、会ったのだが、面白いことに、彼女とは、長い付き合いではないのだが、(短いが濃い?)それに彼女は初めて気がついたらしい。

平田エネルギーのお陰か、今日帰ってテレビを見ると、見るもの全て、ハーブのことだったりしたのだ。

ハーブティーは、飲みすぎてはいけないというお医者様の話とか、(薬効成分があるから。だって、薬草だもん。平田もいつも言っている)
イギリスの魔女の話。(薬草を煎じていたのは魔女だからね。)

お医者様の話で、なるほどと思った一言。

「毒にも薬にもならない。」と、昔から言うでしょ?だから、薬はすぎれば毒なんです。って。

平田もいつも言っている。

ブログ覗いてみて下さいね。魔女だけど、まじめな人だから。(?)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

えっと、誤解のないように

前の続き

キリストはとてもよいことを言ってます。素晴らしい言葉もたくさんあります。

誤解のないようにね。

???は少しだけですから・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

まだまだ終わらぬ聖書

まだ聖書を読み終えていない。だって、長くて、そして、預言書になると意味を考えながら読むのにとても時間がかかるんだもん。

歴史的な記述の部分は読み終えたけれどね。

読み進むにつれ、一体どうやってこの意味を解釈すればよいのかと思うところばかりなのだ。

旧約はほとんど神様に一貫性がない。

キリストのことが書いてある福音書でも「あれれ?」というところが結構あって、???

私はキリスト教徒でもなんでもないので(子供の頃の日曜学校通いも数えるほど)いわゆるユダヤ教の神様やキリストには特別なお思い入れはないけれど、それでも世界三大宗教のひとつなのでさぞかし立派なことばかり書いてあると思っていたのだ。

だから、神様やキリストが???ということを言ったり、したりすると、これは私にはわからない深遠な意味があるのだ、きっと、と、頑張ってみたのだ。

だけれど、やっぱり、「なんだかなぁ~」というところは、なんだかな~なのだ。

細かいところは書き出すときりがないので、ここには書かないけれど(興味のある方は読んでね。せめて、福音書ぐらいは)聖書ですら、キリストを完璧な人間としてしては書いてないのだ。

たぶん、素直に先入観なしに読んでみると絶対???なところがあると思うし、みょーに、キリストが人間ぽいのだ。(あたりまえ・・・だけど)

読めば読むほど、キリストが身近に思えてくる。(ほら、おなかを空かせたときのイチジクの話とかね。)

なんだか、私の「あの人は偉い人だ。」とか思うと、その人は完璧なんだと思い込んでしまう癖を改めて思いださせてもらった気がする。人を理想化してしまう悪い癖。そしてそれから外れると、がっかりしてしまう癖。

聖書を読むことによって、この世で(?)トップ3に入るほど、完璧だと思われていた人がこれほど、いろいろな面をもっているということがわかったのだ。(あくまでも、私の感じたことだけれど)

いいところも悪いところも、何だかなぁ、というところも、すごい、というところもあるのが当たり前。だってキリストだってそうなんだもの。(そして、聖書がそのまま残されていることも。ある意味そうだからキリスト教徒は博愛主義かもね。)

私だって、これでよいのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

意地悪

ずいぶんと前にも書いたが、この世界に入るきっかけが
「悪いあなたの時ほど、周りからは必要とされているときがある。」
と、書いてあった本。

だれでも、わざわざ人に意地悪をしたり、責めたりする人はいないと思う。
自己嫌悪に陥る時「どうしてあんなことを言ってしまったのかしら?」とか、「どうしてあんなことをしてしまったのかしら?」と、あとで思うと思う。

誰だって好きでそんなことやあんなことをするわけでもないのに、してしまったのだ。きっと、神様が今はそれが必要だと思って、そうしたのだろう。と、思う。

人生を振り返ってみれば、よいことの結果がよいことだけに影響されたわけではないことに気が付く。

あの時のあの人の一言(もっちろん、意地悪な)が、あの時のあの人の行動が(もっちろん意地悪な)私を正しい道にもどしてくれたとか(大げさかしら?)何かに気付くきっかけになったとかがあると思うのだ。

だから、もし私が誰かに思わず、意地悪なことをしてもそれはその人にとっても私にとっても必要なことだったんだと思うようにしている。

愛の究極は、「許すこと」だと思うけど、それにはまず、自分を許してあげないとね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自慢じゃないけれど

幸せだなと思う、自分のこと。

好きな仕事を見つけることができた。とにかく今はそれでご飯を食べている。

まだまだ自転車操業で、明日をも知れぬ日々だけど。

この仕事を始めてから不思議なことに、旅行に行きたいとか、洋服が欲しいとか、あまり思わなくなった。(行きたくないわけじゃないよ。洋服も要らないわけじゃない。)

身障者の施設に行っていた時は、お陰さまで、リフレクソロジストという特殊な立場だったので、それほどでもなかったのだが、やっぱり色々と人間関係もあって、(それに身障者のトリートメントは、肉体的にきつかったのだ。ベッドに横になれる人が、ほとんどいなかったから)やたら買い物をしていた気がする。(たいしたものは買ってないです。スーパーでちょこちょこっと、ね。)
買い物はストレスの発散というけれど、そうなんだなと、思った記憶もある。

自分の欲求が満たされていれば、対象をほかに向けなくてもよいということかしら。
私の場合だと、自分の仕事がうまくいくことが最大の欲求で、ほかは、2番目。

今はお金に余裕がないといってしまえばそれまでだけれど、でも、欲しいのにお金がない、行きたいのに、お金がない、と思うよりはとても、楽なのだ。

今は自分の足もとを固める時なのだろう。それが一番心と身体によいのだ。

経済的に支えてくれるだんなもいないけど、(経済的に支えなくてはいけない相手もいないしね)心の支えなら、一杯いるから。

心と身体の余裕を持って、さらにお金に余裕を持った私が、旅をし、おしゃれをすることを夢見る日々なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

教師冥利?

とでもいうのか?月曜のバレエのレッスンではうれしいことがあった。(今ごろかよって?だって、PCの調子が悪いのよ。)

今教えている子供たちの中に、以前私がレッスンを受けていたスタジオに来ていた子がいるのだが、昨日は、とてもきれいにピケやアントラルセができたのだ。

その時のスタジオでは、最初、半年ほど代教で、私が教えていたのだが、新しい先生になってからは、教えることもなかったのだ。それから2年ぶりに私のところに移ってきたのだが、愕然とした。

レヴェランス(お辞儀のこと)はきれいなのだが、基本がじぇんじぇんできていない。とても素質があった子だけに、とても残念だった。2年も経ってこれだけ?って。

自慢ではないけれど、35で始めたバレエを教えている私にとっては、新しい先生は子供の頃から踊っていて、先生の勉強もされていると聞いたので、そのほうがこの子にはよいと思っていたのだ。なのに・・・なじぇ?だったのだ。

やっぱり教え方というものがあるのだろうか。

それとも人数か?

前のスタジオも私がやめてからバレエブームに乗って、人が増えたとは聞いたがそのためかしら?

実技はできれば少人数がいいのだろうのね、やっぱり。
先生の目がいき届く範囲は限られている。

普通の講義だって、少人数の方が、質問もしやすいし、教えている方も誰がわかっていて誰がわかっていないか?集中力はどうか?というのもわかりやすいのだ。
(ああ、いつものように段々話がずれていく・・・)

もとに戻って

その子にとってはせっかく3年近くもやっているバレエなのに、また一から(ちょっと大げさだけれどね)やり直すのは大変だったと思う。

だけど、バレエは誰がなんと言っても(誰もなにも言ってないか)基本なのだ。

基本の立ち方、筋肉の使い方、足の角度、それができていないと、何もできないのだ。

少しずつ身体が覚えるようにパを考えて、バーレッスンした甲斐があって、できなかったピケが、きれいに回れるようになった。う、うれしい!

きっと本人が一番嬉しいのだろうけれど、先生も嬉しいのだ。

最後にシャンジェマンも、32回も跳ばせるけれど疲れてきてから本当に身体の使い方がわかるようになるのだ。引き上げとか、背中の使い方とかね。

40の先生も一緒に跳んでいるからね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

与えることと受け取ること

前のブログであんなことを書いたからか、朝のらりくらりと過ごしていたら、お昼に母から電話があった、「暇なら、大須まで出てこない?お昼一緒に食べよう。」

身体は、だらだらなので、気が重かったのだが、久しぶりのお誘いなので、出かけることにした。待ち合わせは、母が若い頃から洋服を買っているブティック。もちろん私も買っているところなのだが、久しぶり。(だってね。最近はお金に余裕ができるとスクールの備品とか買ってしまうのだ。だからもっぱら、ユニクロ・・・。)

店に入っていくと、「何でも好きなの買いなさい。」と、母。
四十にして、母から買ってもらうのもねぇ、と、少し遠慮。
最初はぐだぐだ言っていたのだが、何点か選んで、買ってもらった。

うちの母親は、子供を育てていないからか、だから育てなかったのかわからないけれど、愛情の表現が下手だ。昔から(父もそうだったけれど)何か物を買ってあげることぐらいしかうまく表現ができない。
昨日だって、私がスクールの運営に頑張っているのを見て、嫁入り前の娘(母親位しか言ってくれないけれどね、この歳になると)が、少しはおしゃれでもして、気分を変えたら?ということだと思うのだ。
母にしても、それぐらいしか私の力になってあげられないと思っているのだろう。
母になんらコネがあるわけでもないし。

母は人からの好意とか愛を受け取るのが下手。人一倍求めているけれど、与えてもらっても受け取ることが下手なのだ。時には受け取っていることさえ気が付かないこともある、人一倍もらっているのに。

それに私も似たのか、受け取ることが私も苦手だって。誰かの好意を受け取ることが怖かった。依存してしまうようで怖かったのだ。(最近はそうでもないけどね。)

どちらかと言うと、与えることより、受け取ることのほうが苦手な人が多いと思うのだけどね。与える喜びは、素直にできても、受け取ることは素直にできない。
与える喜びも受け取ってくれる人の喜びがあってこそだと思う。
受け取る喜びも与えてくれる人の喜びがあってこそだと思うしね。

だから、与えることが上手な人は、受け取ることも上手かもしれない。その反対ももちろんあると思う。と、洋服を選びながら、色々と思ったのだ。今日は私の受け取るということの学びの日?かしら?と。

なぁんて、言いながら、ながながと、四十にして、母親から、洋服を買ってもらった言い訳を言っているだけなんだけどね。実は。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

コミュニケーションとしてのリフレクソロジー

お客様と話していて、子育ての時に、スキンシップが足らなかったので、今流行のベビーマッサージはとてもいいことだと思うと、話されていた。それも、お母さんにとって。(もちろん我がベビーマッサージ講習でも、そのことは教えているのだけれど)
今は成長してしまった子供にもリフレクソロジーをしてあげることはいいことだと思うのだけれど、とも、おっしゃっていた。

その話をしていて、思い出したのが、私がまだこの仕事を本格的に始める前のこと。
そのころは、父とも母ともとても仲が悪かった。(お互いが相手にたして思いが強すぎて、衝突ばかりしていたというのがほんとかな)

ずいぶん前の日記にも書いたけれど、ほとんど会ってもおらず、父親が危篤(そのころはもう病気だったのだけれど)という知らせにも、「大げさなことを言うと私が行くと思っているのね。」と、言いながら深夜タクシーで病院に向かった位。(ほんとに危篤だった。なんて親不幸な娘!)

結果的にはそれから、2ヶ月ほどで亡くなったのだが。その時の父との和解の過程は以前に書いたのでここには書かないけれど、亡くなる前に何度かリフレクソロジーをしてあげた。心筋梗塞の発作と脳梗塞の発作を起こして意識不明だったので、その時の私には、重篤な状態の人にトリートメントを行うことは、少し怖いことではあったのだけれど、何もして上げられない私にとっては、自分の気持ちの助けになったのだ。(まぁ、お父さんも娘の勉強のためなら本望だろうと・・・。親不孝?)

子供の時一緒に住んでいなかったこともあって、父や母とも何かあると、会話がなくなったり、何もないときでも会話ができなかったりしたのだが、父の意識が戻らない病室で、母と二人でいることは、ある意味苦痛だったのだ。
それなのに父からの最後の言葉は、「お母さんと仲良くな」だった。(その後は気管支切開をしたので会話はできなかったのだ)
父が亡くなるのが、今日か明日か、というとき、他の家族はそこにいなくて、何故か母と二人だった。
母と話すこともないので、勇気を出して(それぐらい、母ともうまく行ってなかったのだ。)病室で母の足を触ることにした。そしてそしてトリートメントをしてあげている時に父は、亡くなった。
父親にしてみれば、安心したのかもしれない。意識はないといっても、全てわかるのだろうね。

プロフィールのところに書いた施設での言葉を超えたコミュニケーションのことも事実だけれど、昨日思い出した、このことが私のリフレクソロジストとしての原点なんだろう。

人に触れる、触れられる、ということはととても大事なことだと思う。特に家族の間には。
でも、段々と触れることも、話すことも、子供の時のように素直にできなくなっていく。
その時に何か代わりになるものがあったら、とても助かると思う。
事実私にとっては、リフレクソロジーに助けられた。
父が亡くなった後も母にケーススタディのモデルを頼んだりして、ずいぶんと今までの隙間を埋めるのに助かったし。

リフレクソロジーは、仕事としてだけではなくて、私に色々な勉強をさせてくれているのである。

(あらそういえば、そういうわたしのHPを見て、「コミュニケーションとしてのリフレクソロジー」という、講習依頼がきたのだった、去年。忘れていたわ・・・。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

お客様、受講生の方から学ぶ

経験から学ばなければわからないことがたくさんあると思う。

受講生の方に、リフレクソロジーは、こういった効果がありますよ。と、話しても、実際に自分の身体で経験したり、ケーススタディを通じて、その効果を目の当たりにしないと、???ということもあるのだ。

私も最初自分が学んだこととはいえ、「どうして足だけで?」という、疑問と言うより、不思議な感じがしていたし、果たして自分のトリートメントでも、効果は出るのか?と、自信もイマイチだった。(じぶんの身体の調子がとてもよくなったことがこの仕事を選んだきっかけだったにもかかわらず)

お陰さまで、色々なお客様にであったことで、よい経験をさせていただき、その効果も実際に自分の症例として残せるようになったのだ。

始めたころは、リフレクソロジーと言うものも、あまり知られておらず、お客様にしても、果たして、効果はあるのか?と、半信半疑であったと思う。それでも、私を(リフレクを?)信じて通ってくださったお客様たちには、とても感謝している。お客様に育ててもらったのだ。

スクールでも、修了生の方が、アシスタントをしてくれた後「テキストも備品も進化してますね。」と、言ってくれたことがある。その修了生にしてみれば、自分の時よりもよくなっていると言うことは、自分の時は足らないこともあったということなのに、素直に、そう言ってもらえたことは、とても嬉しかった。

スクールにおいても、今までの受講生の方達に学ばせてもらっているのだ。色々な質問、色々な助言の中から、私自身が気がつかなかったことに気付かせてもらったり。

立体反射区の足モデルも、メトロノームも最初からあったわけではない。受講生の声を聞くうちに必要性を感じてそろえていったものなのだ。

お客様から受講生の方から、学ばせて頂いて、今の私がある。そのお陰で、小さなサロンとスクールではあるけれど、今のところ続いているし、「よいスクールですね。」と、褒めていただく事も。

これからも、「進化していますね。」と、言われ続けるようにしていくことが、お金を頂いて、学ばせて頂いた事に対する感謝の現れであると思うのだ。

修了生の方、お客様には、いつも感謝。

アシスタントもこれからもよろしくお願いしますね。進化してますからね~(笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ペギースーの結婚

カテゴリーの好きな映画とはちょっと違うけれど、昨日WOWOWで「ペギー・スーの結婚」を見た。これを見たのはかれこれ20年程前封切りの時。

当時は、まだ、20歳位で、姉とオールナイトで見に行った覚えがある。(姉となら、門限がなかったのだ。門限・・・死語?)まだ髪の毛がたっぷりあるニコラス・ケイジが出ていて、昨日初めて気がついたけれど、娘役がヘレン・ハント、ちょい役に、ジム・キャリーが出ていた。

内容は、40過ぎの主婦が、タイムスリップして、18に戻る話、でも、意識も今のまま、周りからはそのまま18の時のの人間として扱われるのだ。(だから、バック・トゥ・ザ・フューチャーのように、18のペギースーは、そこに存在しないのだ)

見ているうち、なんだか、自分もその年頃なので、20歳位の時に見たのと感じ方が全然違う。今では、自分に大きな娘がいて、だんなとも別居中なのにも関わらずのに、18に帰ってお母さんにやさしくされ保護されている心地よさが、「うんうん、わかる、わかる。」って、思ってしまったしね。

誰でも人は、子供に帰って、大きな保護のもとにいた時の、安らぎを感じたい時があると思う。そこいらへんで眠ってしまった時に、誰かがそっと、お布団に運んでくれた時のような心地よさ。

映画を見ていて、その映画を見た帰りに、当時は1人暮らしをしていた姉が泊まることになって12時過ぎに、私の部屋で、ひそひそ話をしていて、こらえきれずに笑い出し、今は亡き隣の父の部屋から「うるさいぞ」と、怒鳴られたのを思い出した。
女の子特有の忍び笑いが、治まらずに、怒鳴られたことも、また、笑いの止まらぬ原因になってしまったあの夜。

昨日は、ペギースーだけではなくて、私も一時20年前のあの夜にタイムスリップしたような気がしたのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

リフレクソロジストの仕事と言うもの

こ仕事を始めたとき、人から、「何人位使っているの?」と、聞かれることもしばしばあった。

最初から、補完療法として、学んだせいか、最初から人を使うとかは、考えていなかった。

リフレクソロジーに限らず、ホリスティックに、人と関わろうとしている場合、その人の人柄が、とても重要だと思うのだ。(いい悪いではなくてね。十人十色だから。)

お客様にしても、リフレクソロジーを受けるなら、誰でもいいという人は少ないと思う。

お医者様でも、腕も重要だけれど、その人柄は、医者選びの重要なポイントになってくると思う。(だって、自分の身体を任せるわけだからね。)

こういった性質の仕事は、そのお客様に対して責任をもてるのもそのセラピストしかできないことだと思う。だから、誰かを使って、サロンを開いたとしても、個々独立した形で、仕事をしていくものだと思うのだ。(だから、使うと言う言葉は、適切ではないけど)これは以前に将来の私の夢に、書いたとおり。

スクールにしても、マニュアルを作って、人に人を教えさせるものではないと思うのだ。
単に、テクニックを教えるだけにしても、人によって、違ってくると思うしね。

この仕事は、昔から職人だと思っている。だから自分で、経験の中から学んできたものを身体が覚えて、そしてそこからまた学んでいく。人から学んだことから、自分のものにしていくには、その人それぞれの道があると思うのだ。だから、同じ手技を学んでも、人それぞれの個性が出てくると思うのだ。(そこがまた面白いところだと思うのだけれどね。)

ずいぶん前に見た夢(前にも書いたけれど)そんな小さなサロンは、これからはだめになるわよ、と、大手のサロンの面接官に言われた夢(大手のサロンの面接官の方スイマセン。夢です夢。)のなかで、「セラピストは、パーソナリティじゃーーーー!」と、叫んだことを思い出した。

ベビーマッサージの市川先生は、みんなに安らぎを与えると言われ、そしていつも私はいつも元気を与えてくれると言われる。(ありがたい)
前は、私も安らぎをーーーと、思って、少し悩んだものだが、今は、元気で、いいじゃん、と、思えるのだ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

自分のことだけど

自分のことは自分が一番知っていると言うけれど、確かに、心の中で思ったことも、自分には隠せない。でも、ほんとにそうかしら?知っているつもりだったりするだけかも。

時々人から、「水穂さんはこれこれの人ですね。」とかなんとか言われると、「ええ?そうかしら?」ということが多い。自分の思っている自分と人が思う私とには、ギャップがあることが多いのだ。

自分の欠点は?と、聞かれると、たくさん言える。でも、よいところは?と、聞かれると、うううと唸ってしまう。

昨日バレエの自主トレをしていて(これも仕事のうちですが・・・)もうレッスンを受けなくなってから2年が経つんだなぁ、と、思った。かなり、背中とおなかには肉がついたし、飛びものも、高さがなくなった。体のことも、パのことも、欠点ばかりが、目に付く。

でも、ふと思ったのだ。自主トレだけで、一応最低のところはキープしているじゃん。これって、実はすごいことかも?って。仕事のうちとはいえ、自主トレを続けていることもすごいかも?って。

ちょっぴり、見方を変えれば、自分もすごい!と思えることをしているかもしれない。
まぁ、リフレクソロジーもお陰さまで、今年で7年目になるし(続いてるじゃん!)スクールも内情はともかく、2年経った。続いている・・・これも、すごいことだ。(きっと)
(だって、スクールのそばのカフェは、すーーーーごくお金をかけた内装だったのに、3ヶ月でなくなったもんね。それに比べれば、ね?)

今までは、人から「すごいですね。スクールもやっているのですね。」なんて、言われると、
じぇんじぇん、すごくないんです。大変なのです経営が。なんて心の中で思っていたけれど、私だって、人がスクールをやっていて、続いていると知ったら、「すごいな。いいな。」と、思うに違いない。

確かにそれに伴う苦労は、誰にもわからないけれど、誰でも、人にはわからぬ努力や苦労はされているのだ。

人から見える自分もやっぱり自分の一部だと思うし、自分の思う自分もほんとだと思う。
人には色々な面があるのだ。気が付いているところと、気が付いてないところ。

誰でも、自分の評価は低めになってしまうと思うけれど、時々は、自分の友達になったつもりで、見方を変えてみることは、とってもよいことだと思うのだ。

これからは、自分のよいところやすごい!と思えることにも、心を広くして、自分自身が素直に受け入れていこうと思うのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「早寝早起きは三文の得」

先日久しぶりに、リフレクソロジーのトリートメントをベビーマッサージの市川先生から受けたお陰か(彼女は、ベイリーの同期なのだ)今週は身体の調子がよい。

リフレクソロジーは、身体の症状を直接改善するのでなくて、身体調子を整えて、身体が勝手によくなろうとするのを助けるものなのだ。だから、トリートメントを受けた直後にも効果は現れる場合もあるけれど、2,3日してから、よい感じ~となることも多い。
今回の私が、その場合。
どこかが悪いわけじゃなくて、なんとなく身体のリズムが乱れていて、流れが悪かった。

先月に一日だけ、夜のお店をやっている友達のところに出かけて、久しぶりだったので、ついつい朝の4時まで話してしまった。それから、なんだかおかしかったのだ。(うう、歳のせいもあると思うけど)

それから、家にいても、眠る時間が、遅くなった。12時を回ってしまう。
朝は、早く起きなくてもよいので、7時位まで寝ているのだが、目覚めが悪い。

今週は、水曜に(月は、バレエで遅くなるし、火曜はおばあちゃんをお風呂に入れに行っていた)久しぶりに、家で、早めにご飯を食べて、テレビを眺めていたら、8時に眠ってしまった。2時位に目が覚めて、ベットへ、そして、朝までぐっすり。

木曜も10時には、就寝。5時起床。
昨日も、10時就寝。今朝は4時に起床。

とても目覚めがよい。そして、身体の調子もとてもよい。身体のリズムが戻ったのだ。
その証拠に、がんばって、10時に眠るのではなくて、自然に眠くなるのだ。

やっぱり、睡眠時間より、睡眠時間帯。

先日もお客様とも、夜早く眠ると、それだけで、「ああ、たくさん眠れる」と思って、安心して眠れるけれど、眠るのが遅いと、「朝起きられるかしら?」と、思うだけで、ストレスになって、緊張しながら寝ているような感じがする。という話をした。

それに同じ時間起きていても、朝の時間が長い方が、一日が長くて、時間たっぷりに感じられると思うのは、私だけだろうか?(もちろん、日付のことを考えたら、夜更かしして、朝起きるのが遅ければ、一日は短いのだけれどね。)

昔から「早寝早起きは、三文の得」というけれど(ふ、古い?)「早寝早起きは、心と身体の得」なんだろうね。

医者にかからずに、一文節約。薬を飲まずに、一文節約。元気に働いて、一文稼ぐ。って、感じかしら?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「怒る」と、「叱る」

ほんとに、PCの調子が悪い。(また愚痴)ブログの更新を妨げる。ということは書かなくてもいいということかしら?

昨日、知り合いの人から、久しぶりに電話をもらった。
今度、ご飯でも食べようとのお誘い。
久しぶりなので、少し話をしたのだが、先日久しぶりに、大激怒したそうなのだ。

「私が怒るなんて珍しいわよ。」

と言っていたが、確かにそうだ。と。

「こんなに、怒らせる人もいないわよ!」

って。

確かにそうだ。と。

歳をとると、人間が丸くなるというけれど、確かに、周りに怒らせる人もあまりいなくなるということもあると思う。周りの人も、角が取れてきているしね。

あと、熱くなると言うことも、減るからかしら?

あきらめの方が強くなったり。

怒ることで、思い出したけれど、最近は、「叱る」という言葉をあまり使わないような気がする。

私の世代では。「怒る」っていうのと、「叱る」って言うのは、明らかに違った。

「怒る」っていうのは、なんだか個人的な感情のような気がする。

「叱る」っていうのは、感情ではないところからくるもののような気がする。

(気がするってだけで申し訳ないけれど)

言葉では、うまく表すことはできないけれど、違うもの。だと思うのだ。

「叱る」という行為には、相手に対する思いがあると思うし、(それゆえに、怒る、ということになると思うのだ。)

だから、叱られた方もただ単に怒られたというわけではなくて、これからのために、という感じがするのだ。

20歳位の時、ある人に、(私よりかなり年配の方だったけれど)些細なことだけれど、私のしたことで、注意をされた。
その時の(まさに叱られたのだが)言葉が、柔らかで、叱られているという感じはしなかったのだが、言った言葉はきっぱりしていた。

同じことを言われても、違う言い方をされたら、「ふんっ」ってなるところをその人の言葉は、20年経った今でも、私の心に残っている。
私が、お盆を使わずに、手に持って、お銚子を運んでいたら
「お盆を使いなさい。そのほうが、あなたが美しく見えますよ。」
と言われたのだ。
その時、私も誰かに何かを注意する時、こんな言い方をしてみたいと思った。
(この間、初めて無意識に同じ言葉を使ってしまったのだが。)

せっかく、40歳になったのだから、上手に人を叱ることができるような人になりたいのである。人を上手に叱るということは、それなりに歳を取るという必要もあると思うのだ。

でも、現実は、バレエでも、スクールでも、ひとり熱くなって、怒ってばかりなのだ。(しゅん)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

身体と心に、意識をむける

ううう、相変わらず、パソの調子が悪い。(愚痴)

この仕事を始めてから(始める少し前かしら)体の調子が悪くなると、心の調子に、気を使うようになった。

「病は気から」というではないか、昔から。それに気が付いて、ほぼ十年。

本当にそう思う。だいたいが、心に気になること、我慢していること、それに気がつかないと、身体の調子がおかしくなる。

もちろん身体のことも大事だ。
毎日の、残業やお付き合いもあると思う。
でも、じゃあ、どうして、そんなに頑張るの?って、いう疑問も出てきても不思議じゃないのかな?

私の友達で、毎月残業代が、OLさんの初任給位あるこがいた。
彼女は、「私の人生は、どこ?」って、思ったらしいが、年齢のこと、収入のこと(彼女は独身だったけど)年金のこと、を考えると、転職できないと、言った。

心も身体も連動している。どっちが先かは、人のよって、違うと思うけれど、でも、心と身体に意識がない人が多いのかしらんと思うのだ。

心にも身体にも、余裕のある人は、(病気かどうかは問わず。だって、私のところのお客様で慢性疾患を患いながら、前向きで、いつも心に余裕のある人がいるから)人にも、自分にも寛容になれると思うのだ。

この仕事を始めたとき、ただ、リフレクソロジーはすごいなっと思ったけれど、心と身体に、もっと意識を向ける人が出てきて欲しいなと、段々感じるようになった。

だって、身体にも心にも余裕がある人(お医者様任せばかりじゃなくてね。)意識を向ける人がこれから多くなれば、少しは病気も未然に防げるようになるはず。

健康、健やか、穏やか。

それこそ、人にも、地球にも、やさしい。

医療費も減るし。

リフレクソロジーがそのきっかけになってくれればいいと思う、リフレクソロジストなのだ。

「健やかな毎日のために」を読んで、健やかにお過ごしください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年10月 | トップページ | 2005年12月 »