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2005年6月

自主トレ終わって、幸せ気分

先月からの自主トレ怠慢のお陰で、おなかに嫌と言うほど、お肉がつき、足が弱り、ピルエットが回れなくなったので(先生がこれでいいのか?)先週からは、まじめに、週3は、自主トレをしている。(自主トレも、仕事のうちである。)
筋肉がつくので、続けていると、レッスンが楽なのだ。1週間お休みすると、地獄だが。

今日は予約が入ってないので、銀行その他(そう、今日は、恐怖の月末じゃー。)の用事を終え、いざ、自主トレに。
1時間半ほど、バレエで汗を流し、(ピルエット回れるようになった)シャワーを浴びて、栄の街に、食料の調達。
丸栄の地下食料品売り場が、お気に入り。
(新しい葉物なんかが、とても安い。ロメインレタスやエンダイブが、100円である。)

それから、お昼のチキンサンド用のパンをフォションで買い、明治屋を冷やかし、帰宅。
栄の街は、暑いのなんの、もう気分は、バンコクかシンガポールである。
その気分のまま、自家製ローストチキン(と、言っても、胸肉のみ。これもバーゲン。なんと、100グラム19円。)と、フリルレタス、特製のマヨネーズで、チキンサンドを作ってから、天使のささやきが・・。

「飲んじゃえ、ビール。」

と、そのままコンビニに買いに行った。
(まぁ、今日は、シンガポールかバンコクにいるわけだし、その気分で。)

ゴクラクである。
サンドは、うまいし、ビールもうまい。もう、暑さも味方である。

幸せだーー!

幸せでいるのも、セラピストとして、大事な仕事なのだ。

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職人!

今家の前で、大きなマンションを作っている。
15階建て。完成に、まだ、1年かかる。

暇な時は、窓から、工事の様子を見ているのだが、このあいだは、面白かった。

高層のビルを建てているときに、固定式のクレーンを使っているが、それを組み立てていた時。
そのときは、まだ、車のクレーンを使って、組み立てていたのだが、3時の休憩になった。
休憩なのに、クレーンが動く。(これがまた、うるさいのだ。)
なんじゃ?と思って、見てみると、固定式のクレーンの支柱の上で作業している人のために、車のクレーンで、コンビニのビニール袋に入れたお茶を吊り上げているところだった。

微妙な操作で、上の人、そしてその下の階にいる人にお茶を運んであげていた。

「おお、これぞ、職人!」と、心の中で叫んでしまった。

その後も、しばらく見ていたら、今度は、何をしているかはわからないけど、その固定式クレーンのまさにクレーンの部分、支柱から横に広がったところに、命綱1本で、歩いているおじさんがいる。それも木の板持って。

「おお、またまた、職人じゃーー!」と、叫んでしまった。

だってね、地上何メートルとかは、わからないけれど、隣のマンションの十階部分に相当している高さで、ほとんど、空中なのよ。空中!
ビルに張り付いていても、その高さは、怖いだろうと思うのだけれど。

週に6日、朝8時から夕方6時ごろまで、工事の音は、とてもうるさい。
でも、色々な職人芸を見せてもらえたので、楽しむことができた。

世の中には、「プロジェクトX」じゃないけれど、名もない職人さんの力で、大きな仕事が行われているのだ。
職人さんにとっては、当たり前かもしれないけど、私の目には、おじさんたちの背中から、プロのオーラが、見えたのである。
「プロだから、当たり前。」
その当たり前、ということの裏にある職人としての誇りを、見たのだ。

でも、そのビルが建つと、家の玄関に朝日があたらなくなることも、判明したんだけど・・・。
(がっくし・・・・。)

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昔に見た夢

この仕事を始める前は、人生の暗黒期と言うか、最悪の時だった。

まぁ、そいう時期があったから、この仕事に出会えたと言うこともあるのだが。

仕事を始めてしばらくして見た夢が、面白かった。それを、久しぶりに思い出した。

遠山の金さんや、大岡一前(?)に出てくるような緒白州(?)に、座らされて、今までの自分の人生を見せられた。それから、蜂みたいな羽の生えた天使二人が、「今までの人生色々あったけど、今、あなた幸せでしょう?だから、これからも大丈夫よ。」と、ふわふわ浮かびながら、言うのだ。(厳か度ゼロ)
蜂みたいな天使は(髪は金髪だったけど)私の潜在意識のなせる技かどうかは不明だが、その言葉に納得した覚えがある。

40年、生きてくると、それなりにいろいろなことがあった。(結婚、出産は、経験ないけれど)
「どうして?こんなことが起こるの?」
とか、
「どうして私は、こんなことをしているのだろう?」
とか、いっぱいあった。そのときは、わけがわからなくても、遅かれ、早かれ、その理由が、わかる時が来る。
そしてそれは、全て、今のためだったんだなっと、思う時が来るのである。
無駄なことは、起こらない。全ては目標に(今はわかっていなくても)向かって行くための完璧なプロセスなのだ。

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色々な自分

私は、リフレクソロジストであるわけだが、他にも色々な自分がある。

まずは、リフレクソロジスト。
バレエの先生もしているし、
リフレクソロジーの先生でもある。
母からみれば、娘であり、おばあちゃんから見れば、孫である。
姪や甥から見れば、叔母であり、姉から見れば、妹である。

仕事が、うまく行くことだけが、私の成功ではない。
もちろん、成功していると思っているが、(がっぽり儲けているという意味ではなくね。)
仕事のないときは、ある。
そういうときは、最近では、おばあちゃんの孫であるということに、成功し、姉のところで、姉や姪にトリートメントをしてあげることに成功し、母の店が、人手が足りない時に、何故かやっぱり、仕事が入ってなくて、手伝ってあげることに、成功している。

何をもって、成功しているか、人それぞれだとは思うけれど、最近の私は、いろいろなことに成功しているのである。
(忘れてた。仕事が暇な時は、ちゃんと、自主トレをして、バレエの先生として、成功している。・・・つもり。だってね、これはね、ゴニョゴニョ・・・・。)

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うちのおばあちゃん

うちのおばあちゃんは、今年で米寿。
そう、りっぱな88歳である。

前にも書いたけれど、まだ1人暮らし、そして、母の店で皿洗いのバイトをしている。

最近は杖をついて歩いているが、よく忘れるので、本当は、必要ないようだ。

この一ヶ月ほど、週2回リフレクソロジーをやりにおばあちゃんのところに行くのだが、(目の前に住んでいる)2週間ほど前、
「今日は、足はダメだよ。」という。
「どうして?」と、聞くと、
「コタツが足の上に落ちてきた。」と、言うではないか!
「見せてごらん。」
見事に、右足の甲が全部紫色、どこを打ったかもわからない。
「こたつを立てかけて、掃除機をかけていたら、ちょん、とあたって、倒れてきた。それで足の上に乗っかったの。」と、何故だか嬉しそうに話す。

88歳にして、骨も折れていないし、ひびも入ってないようである。
恐るべし、我がおばあちゃん。
本人は「歩けなかったんだよ~。」だなんて、のんきに言っているが、歩いている。
ついでに、松坂屋さんまで、物産展にも出かけている。店にも行っている。近くの温泉にまで行っている。

こんな年寄りになりたいものである。(孫だから、なれる要素大だよね)

今日は、ほとんど痛くないらしく、右足にもトリートメントを行えたのだが、
「あなたのおかげよ~。足やってくれてたから、じゃ、なかったら、まだ、歩けなかったかもよ~。」(だから、歩いてるジャン、最初から)
「感謝精一杯よ~。」
と、言われた。

おばあちゃんは、いつも感謝する。誰にでも。
過去に自分にひどいことをした人にでも。(私だって、きっとしているに違いない。若い時はいっぱい迷惑をかけたと思う。)

「ありがとうね、おばあちゃん。」と、いうと、

「なぁん、いいのよ~。」と、いう。

感謝の心が、おばあちゃんの骨を強くしている?

ともあれ、骨に異常もなく(と言っても、病院にも行ってないのだが)、本人は、歩けないといいながら、歩いているし、(ここがよくわからないのだが)、孫の愛のリフレクソロジーが効いているのか、坐骨神経痛も、なくなり、肩こりも、なくなり、ご飯を最近はバクバク食べるし、あと、20年ほどは大丈夫の様子である。

とは、言っても、お互い何が起こるかわからない。
ここのところ、仕事が暇なのにまかせて、おばあちゃんのところで、一緒にご飯を食べるようにしている。
とても、それが嬉らしく、おばあちゃんのそういう顔を見る私もとても嬉しい。

仕事が暇な時は、神様がおばあちゃんとご飯を食べなさいといっているのだと思って、最近は、のんびりしているのである。
また忙しくなるからね。

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許すこと、許さないこと

先日書いたことの続き・・・。

自己嫌悪のことも書いたけれど、人を許せないということは、自己嫌悪につながるんだろう。

人を許せないことというのは、まずは自分が辛くて、そして、もし、相手が身近な人だったら、その人も辛い。(大昔の恋愛で、経験済み。ひゃー。)

人を許さないって、自分をその定義に縛ること。
「こんなこと、私だったら、しない。」って。
でも、私もよくあることだけれど、些細なことから、大きなことまで、それまでの自分がしなかっただけだったり、やっていても、気が付かなかったり、忘れていたりすることもあるんだよね。

そのことに、ふと、気がついたりしたときに、自分を許せないんだろうね。

自分を許すことから始めないと、人を許せない。

許せない心も辛いけれど、許されない心も、辛い。

これって、自分の中で全て起こっていることなんだ。

まずは、自分を許す。

それから、始めないと。

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ジャガイモ君

我が庭のジャガイモ君は、去年の名残が発芽したもの。
去年植えたときは、芽が出て、花が咲いて、と、そこまではよかったのだが、去年の暑さに負けて、そこからだめになったのだ。
それでも、小さなジャガイモができていたらしく、秋に勝手に発芽した。

よくは覚えてはいないのだが、その子も、大きくならずに(目立たないところに隠れるように芽が出ていたので)だめになった。(と思っていた。)

ところが、また、知らないうちに、ひとつ、ふたつ、ジャガイモができていたらしく、えらくりっぱな芽がまたでてきたのが、今のジャガイモ君なのだ。

今年は、うまくいきそうで、とても、立派に育って、花も咲かせている。
1度、お隣のねこちゃんに、倒されたが、盛り土で、復活した。

そのジャガイモを見ていると、ジャガイモはジャガイモでありたいんだなっと、思う。
「私の道はこれしかありません。」
って、ジャガイモが言っているようである。(ジャガイモが、キャベツになるのも、みてみたいが)

ジャガイモがジャガイモとして、生きていくのは、当たり前なのだろうが、我が家のジャガイモ君には、何故だか、教えられるのである。

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許されないと言うこと

今日(昨日か・・・)朝、元気よく、1階の駐車場から自転車で飛びだしたら、危うく、自転車の前に小さな子供を乗せたお母さんとぶつかりそうになった。
ビックリして、
「すいません、ごめんなさい。」
と、叫んでしまったのだけれど、そのお母さんは、無表情、前に乗っている子供だけが、不思議そうに、私の顔を見ていた。

もちろん、私が悪い。
だけれど、何も言わず、ほとんど無視されたような感じを受けた私は、とても、苦になった。

「キャー」とか
「どこみてんのよ!」

と、言われた方が、楽だった。

小さな子供を乗せていたお母さんだから、余計に自分の不注意が気になったのだ。
だから、何処かのおっさんより(おじ様には罪はないが)気になって仕方がなかった。

謝ったけれど、どう思ったのだろう?
私の中では、無言の怒り、を、感じた。

人生からみれば、些細なことかもしれないけれど、悪気がなくやってしまったこと、そして謝ったのに、無視された。その後、許されないことをしてしまった気がして、苦しかった。

なんだんだろう?この心苦しさは?と、思った時、許さない心も苦しいけれど、許されない心も苦しいんだなっと、初めて感じた。

遠い昔、お付き合いをしていた彼が、約束を破った時、とても責めた。(だって、私も若かったんだもん)その時言われた言葉を思い出した。

「約束を破ったことをとても悪かったと思う。だから、責められると辛い。一番悪かったと思っているのは、その本人だから。」

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昨日の夜は

昨日はコースの2日目で、受講生の方のモデルになったこともあって、帰ってから、お風呂に入り、ソファで、テレビをみながら、PCを立ち上げていたら、知らないうちに眠ってしまった。
気が付いたら、12時を回っている。それから、ちょっと、書き込みをして、早々にベッドへ。

トリートメントを受けると、子供の頃のような眠りを感じる。
海水浴に行った日の夜のような、けだるく、心地よい、魅惑の眠り。
(魂が喜んでいるのであろうか。)

今朝は、快調である。

最近は、我がスクールにも、各地から参加される方がいる。
ありがたいことである。
朝、早くから新幹線に乗り、私のスクールにやってきてくれる。
ああ、幸せ。

イタリア人は、手を縛ると、無口になると言うが、私からリフレクソロジーを語ることを取り上げたら、どうなるのだろう?

オーラ・ソーマも好きだし、ヘッド・マサージも好きだし、その他のことも嫌いじゃないけれど、でも、私には、やっぱり、リフレクソロジーが、しっくりくるのである。

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バジルのおすそわけ

今年はどういうわけか、何も考えずに、バジルの種を一袋全て蒔いてしまった。
いつもなら、そんなことはしないのに。
発芽してくれたのは、嬉しいが、手に余る。(貝割れ状態です。)

ある暇なお天気のよい日に、ふと思いついた。みんなに分ければよいのだ。
土は、この間の植え替えのが余っていたし、カーマに行けば、安くポットが売っているに違いない。(案の定、50で、100円だった。)

それからは、丁度本葉2枚になったバジル君たちを大移動させた。これもまた楽しいのだ。一つ一つ個性がある。

根が落ち着くまで、しばらく待った。

一昨日から、家の前に、「ご自由にお持ちください、バジルです。」
の張り紙と共に置いておいた。
時々2階から覗くと、ところどころが歯抜けになっている。
なんだか嬉しい。
誰にもらわれていっているのかはわからないけれど、きっと、お花とか、ハーブとか好きな人たちに違いない。

突然思いついたことだけれど、ささやかな喜びをくれる。
もらってもらえる幸せ。
なんだか、いい感じ。

そして、昨日、今日と、バジル君たちが、旅立っていくたびに、幸せ気分の私なのである。

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雨が降ると畑の様子が一変する。
元気のなかったきゅうりは、ぐんぐん大きくなるし、小松菜も淡い色をして、大きくなった。(日照りが続くと、濃い緑で、少し硬い。)
バジルの成長も目を見張るし、あんまり好きではないけれど、ナメクジ君も元気がいい?困っているのは、トマトだけ。

本当に畑をするようになってから、雨が恋しくなることが増えた。
雨上がりの畑の土の匂いと、野菜と土の色のコントラストを見るのが好きだ。
雨に洗われた葉っぱも、とてもきれいだ。

出掛ける時の雨は、時々嫌いだけれど(特に時間に制限があるときは)時間に関係なく、好きなペースで歩いていられるなら、大丈夫。
この時期は、雨にぬれている紫陽花を見るもの楽しい。
人様のおうちの紫陽花に感謝する。

それで思い出したけれど、我が家の前にも、メドーセージ(またの名をサルビア・ガラニティカ)が、今年も大きくなって、きれいな紫の花をたくさんつけている。

これは、最初出始めの時に、色合いに惹かれて、よいなぁと、思っていたら、母の店のお隣の花屋さんが、一番花が終わったので、商品にならないからと、くれたのだ。(毎日、花にうちのお店から出るお米のとぎ汁をあげていたから、そのお礼に。またもや、わらしべ長者である。)

とても丈夫で、毎年秋になると枯れたようになるのだが、春になると、根から芽を出して、どんどんと増える。
今年で、5年目位かな、背丈も私の背ぐらいある子もいる。
夏の間花が切れることはないし、緑と紫のコントラストが、目に涼しい。
葉の香りもよくて、花の蜜もとても甘い。
(なんだか、自分の子供を自慢する親ばかのようだけど)
今年は、本当にきれいに咲いたのだ。

先日もお昼休みに前を通った人の会話が聞こえてきた

「ここ、毎年きれいに咲くのよね。」

嬉しかった、見ていて、喜んで、そして褒めてくれている人が、いるんだ。
紫陽花のお返しである。(相手は違うけれど)

すべては、回りまわってくるんだね。(気持ちもわらしべ長者?)

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人の顔

人の顔を見るのが好きで、よく観察してしまうのだが、人の顔はおもしろい。

同じ顔でも、笑っている顔と、難しい顔をしているときでは、かなり違う。

この人が笑うとどういう顔になるのかしら?と、想像したりするのも好き。

地下鉄に乗っているときなんか、今まで難しい顔をしていた人が、知り合いの人に声をかけられて、ぱっと、笑顔になる。そういうのを見るのも好き。

最近は、「辛い時ほど、笑え。」という、誰かの言葉がとても印象に残っていて、落ち込みそうになると、その言葉を思い出す。

きっと、私の顔も誰かが見ているに違いない。
そんな時怖い顔をしているよりも、少々能天気に見えるような顔で、ありたい。

やはり、「幸せだから、笑うのではなく、笑うから、幸せなんだ。」ろうね。

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背景がわからないと、見えてこないもの

もう、ほとんど20年も前のことだが、その頃、大検の勉強をしていたときの、同級生の話。

私は、母の店を継いでいた。(喫茶店ね)
その頃は、まだ、大検の学校をやっているところが、なかったので、少し遠いところからも、その学校に来ている人がいた。
お金がない家の子ではなかったが、1人暮らしをしていて、いつも、おなかをすかせていた。

ある日、私の店に、遊びにやってきて、焼きそばを注文したのだが、いつも、おなかをすかせているので、サービスのつもりで、ご飯とお味噌汁をつけてあげた。
なのに!残したのである。
むかしながらのおばあちゃん子である私にとっては、「何ゆえ、残す?もったいない、人の行為を無にするのかしら?」だった。
「どうして残すのーーーーーーーーー?」
と、少しお怒りの言葉を投げかけてしまった。
そうすると、
「普段お金がなくて、食べていないから、胃が小さくなっていて、どうしても入らない。ごめんなさい。」

結果だけ見て、判断した私は、人にはわからぬ理由があるもんだと、その時思った。そして、少し、自己嫌悪。

人の行為を好きで無にしたりする人もあまりいないだろう。
(まあ、それ自体もエゴかもしれないけれど)
人には、わからぬ都合や理由があるものだ。

誰かを非難する時、その人の立場を経験したことがない人間に、常識とか、当たり前とかを、振りかざし、非難することができるのかしら?

イラクにいるアメリカ兵の虐待が、ニュースになったりするが、あの場所、自分の命もわからない、上からの命令にそむけない、まともな、精神状態とは思えない。
安全で、快適なところから、テレビを見ている私たちに非難できるのだろうか?

いい子ぶりっ子ではない。

自分が経験したことがない状況で行う、人の行為を非難するとき、少しは、想像してみたら?少しは見方が違うかも。
他人には、わからぬ理由があったりするもんだ。

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与えることは、もらうこと

昨日は、スクールだった。いつもそうなのだが、終わるととても、よい気分になる。
もちろん、身体は、少々くたびれるが、心は、はつらつである。

子供の頃、占いで、「向いている職業は、先生」を、読んだときは、落ち込んだが、今は、当たっている。である。(もしかしたら、潜在意識に刷り込まれていたかしら?)

とにかく、楽しいのだ。もちろん好きで始めたことだから、当然と言えば、当然だけれど。
ベーシックでも、ワンデイでも、なんでもここで、学んでいってーーーって、感じ。
プロを目指している方も、ご家族のために、学びにきた方も、どんな方でも、リフレクソロジーのよさを、しっかりと、感じていってもらいたい。
私の持てるもの全てを伝えるというのが、私の望みである。

与えることのできる喜び。

与えて感じる幸せ。

いつも思うけれど、こんなに小さなスクールに縁があって、来て頂いた受講生の皆様。
ありがとうございます。
いつも、私もいろいろなもの、頂いてます。
ありがとう。

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この仕事についたわけは、前も書いたけど、いろんな人が、楽チンになって欲しいから。

心が最低の時、出会った、いろんな人、いろんな本。

「完璧を語るのに、完璧である必要はない。」

最近読み返した「神との対話」の、一説である。

・・・でも、完璧でない人は、いない。
だ、そうである。

ほんとに、「今」という、時間の中で、(今ね。今は、意識するともう、今じゃない、過去)
全ての人は、完璧な存在なんだろう。
その人の人生も完璧。今は。

明日は、明日。

何が起こるかわからない。

今、どうあるべきか?(それでも、過去なんだけれど)

今、どうなのか?

今、おなかがいっぱいで、仕事もあるのか?それでいいじゃん。

それが、今。

一秒先のこと、わかんない。

誰にとっても、今は、完璧。

それは、明日のために。ね。

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勝手に安心

「神との対話」を、以前読んだとき、どうしてピンとこなかったかが、わかった。
それまでに読んでいた本と同じようなことが、書いてあったからなのだ。
そして、その時の私は、なんでもかんでも分かっているつもりでいたから、ふーん、と、思っただけだったのだ。

今回読み返してみても、やっぱり、目新しいこと書いてあるわけではないのだが、その中身を理解すると言う点では、以前には及びもしなかった。
自分では、以前と変わっていないつもりでいたが、今回は、経験を通してその中身を理解したと言う感じ。前は、頭だけでわかったいただけだったのだ。
それに知っているつもりのことでも、忘れていると言うことはよくあることだ。

自分の変化は(いい意味でも、悪い意味でも)自分では、なかなか気がつかない。
外から教えてもらって、初めてわかる場合が、ほとんど。
内面の変化を外部から知る、というのも、なんだかおもしろいね。
やっぱり、自分の周りは、鏡なんだろうね。

自分では、同じと頃をグルグル回っているような気がするけれど、外から見れば、きちんと螺旋階段を少しづつ昇っているんだ。
安心しよう。

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罪悪感

罪悪感って、人に対する批判と同じかなっと、最近感じる。

例えば、私なんか、スクールを始めたお陰で、借金があるのだが、(自慢じゃないけど)
そんなとき、大好物のメジマグロのお刺身を見つけて買ったときなんか
「こんなことしていて、いいのかしら?」
と、買ってしまってから、お金を貸してくれている人に対して、申し訳なくなってしまったりする。(と、いいながら、おいしく頂くのだが。メジマグロには罪はない。)

そして、本当は、別にアルバイトでもして、お金を返す努力をしたほうがいいんじゃないかな、っと、仕事が暇な時なんかは、ボーっとしている自分に、これでいいのかと、思い、罪悪感を感じたりする。

少し前までは、それがひどくて、ストイックになることが、人様に対する礼儀だと感じて、仕事のないときは、朝、昼、夜、ふりかけご飯を食べていたりした。(それもまた、楽し、なんだけれど、お陰で、どこのふりかけが、おいしいかわかったしね。)

そして、ふっと、気が付いたのである。
こういうふうに罪悪感を感じたりするのは、自分に厳しいということではなくて、自分と同じ境遇にいる人が、もし、私と同じ事をしていたら、腹が立つ、とか、もっと、働けよ、とか、感じるからなんだろうな、ということ。

そして、自分に、厳しいと言うより、人の目が気になっていたり、ふりかけご飯を食べることで、自分に言い訳しているだけだと。(ほんとに自分に厳しい人なら、罪悪感を感じるまでもなく、とっとと、働いているに、違いないしね。)

人を批判することは、自分にも、その批判が向くことになるのだ。
まさに、「罪のなき者だけが、石を投げよ。」である。

罪悪感を感じるということは、自分のみならず、人に対しても批判しているということなんだろうね。(ま、私の場合は。)

と言うことは、人を批判するという気持ちが、自分に対する罪悪感も生むんだろうね。

最近の私は、どんな自分でも、受け入れる、自分を好きだ、という宣言をしたので、罪悪感とは、縁を切ったのである。(つもり)

誰にだって、言い訳の余地は、与えるもんだ、自分にも、人にも。

と言いつつ、またまた、どんどんと、自分を甘やかしていくのである。

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わらしべ長者?

今朝、おばあちゃんに、枇杷を収穫して、持っていったら、お返しに、エボダイの干物をもらった。
うーーん、わらしべ長者のようである。

おばあちゃんは、枇杷をひとつ食べると、「おいしい!」と言い、みんなにも、持っていってあげようといって、母の店に持っていくために、ひとつしか食べなかった。(たくさんあるのに。)
おいしいものは、みんなで分け合って食べると、もっと、おいしい。
またまたおばあちゃんに思い出させてもらった。
おばあちゃん、ありがとう。
もちろん、干物もね。

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畑について

このところの雨のお陰で、とうもろこしが、すでに発芽。
芽が出ていなかったところも、夕方には、芽を出していた。
植物の力には、いつも、感心する。

今朝は、朝から自家製のトマトソースのスパゲッティ。トッピングには、間引きしたルッコラ。
まだ、双葉と次の葉が出たばかりなのに、ほのかに、ごまのようなピリッとした味がして、自分はルッコラですよ、と、自己主張している。

畑には、季節柄いろんな虫がいる。
小松菜には、緑や紫の青虫(紫でも?)が、気持ちよさそうに、小松菜をハグハグしている。
お陰で、小松菜は、虫食いの穴だらけだが、その味は、最高だ。
以前は、虫を見つけると、躍起になって、取り除こうとしたが、今では、いいじゃん、青虫位と思うようになった。青虫は、蝶になる、そのチョウチョが、ひらひらと我が庭を飛び回るのを見るのも楽しいのだ。それには、青虫君の食料位は提供しないとね。

ただ、雨上がりに、ナメクジさんたちが、集団でいるところを見るのは、今も苦手だけどね。

自給自足は、無理だけれど、時々こうして、畑からの恵みを頂くと、エネルギーを充電しているようだ。
お庭のない方も、プランターでいいから、野菜を育ててみては、いかが?

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準備ができた時に・・・

「準備ができた時に、教師は現れる。」と言うけれど、最近実感。

前にも書いたが、「神との対話」を読み返している。
前世紀に読んだ時は、ぴんとくるものがなく、第三部は、買ってなかったのだが、今回1と2を読み返して、買った。同じようなことが繰り返し繰り返し書いてあるのだが、今回は、よく理解できたのだ。
ついでに、この仕事を始める前に買った「聖なる旅」という本も読み返したのだが、(これも、読んだ時には、ピンとはこなかった。)これまた、よくわかった。それに、面白いことに、神との対話とも共通点がいっぱいあったのだ。

「親の小言と冷酒は、後できく。」
というが、そんなものなのかもしれない。(ちょっと違うか?・・・)

昔から、先人達の知恵に学べというが、学ぶにも時期というものがあるのだろう。
若い時に、身体を労われといっても、歳をとるということがわからない時に言われても、ピンとはこない。無謀な日々をすごすことも、必要なのだろう。あることを経験するには、その反対のことも経験しなければ、わからないものだ。

若い時は、目上の人から「あなたもいつかわかる時がくるわよ。」なんて、言われると、むっとしたけれど、(若い頃は何でも自分はわかっていると思い込むものだから。)自分が、実は何もわかっていないということに、気付くと、その言葉の意味も分かるようになった。

私たちは、経験を通して、いろいろなことに理解を深めていくんだろうね。
(また、タイトルと話がそれたかな)

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初心に帰る

「初心に帰る。」
とは、思うもののなかなか本当の意味で帰る事は、難しい。

先日、お客様と話していて、私がこの仕事についた頃の話になった。
「協会のニューズレターに、その時のことを書いたので、もしよかったら、読んでみて下さいね。HPから、リンクしてますから。」なあぁんてことを、言ったもんだから、自分も読み返してみた。

確か書いたのは2001年だったと思う。そして書いたときのことは、1999年から2000年の事。半年振りぐらいに、読み返したけれど、あの頃は、ほんとに、パワーがあった。(今もね♪)何も疑わず、自分の道にまっしぐら。逆に今ほど、リフレクソロジーが知られていなかったのも、よかったのかも。いらぬ声が耳に入ってこなかったから。

最近、本当に、この道に専念するようになって、改めて、あの時の気持ちと同じような感じがする。だけど、以前よりも、もっと、疑わず、この道まっしぐら。

今のような気持ちになるまでは、これで本当にいいのか?私は、大丈夫なのか?へこたれそうなこともいっぱいあった。でも、それを経験することで、また、自分が変わったのだ。(自分の再発見ということかもね。)
全ての事は、目的にに向かっていくことへのプロセスだから、必要でないことは、経験しない。高いところ、低いところ、暗い道、明るい道。時々大洪水、時々晴れ。
いつも、私は、仕事を通じて、自分が変わる。(変わらざるを得ない、なんだけれど)
そして変わることの気持ちよさも、仕事が教えてくれる。

自分を大事にすること。自分が幸せでいること。自分を好きになるということ。

5年前も同じようなことを書いていたな、そう思うと、成長しているのやら、初心を忘れていないのやら・・・。

とにかく、今のところ、気持ちよく仕事をしているのは、ほんと。

だから、これでいいのだ。

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